'09/03/07 本紙掲載 
     
 

桐野利秋の恋人・村田さと

■洗礼受け、生涯独身貫く

桐野利秋の京都時代の恋人だった村田さとの墓=京都市左京区

 京都・東山の麓(ふもと)にある有名な哲学の道。その南の端、若王子(にゃくおうじ)神社から若王子山に登る山道がつづいている。この山頂にある若王子墓地をめざして登ったことがある。
 山頂には同志社の創立者・新島襄(じょう)(1843-90年)の墓をはじめ、新島の妻・八重、八重の兄で政治家としても知られる山本覚馬(かくま)(1828-92年)などの墓もある。
 ここを訪れたいと思ったのは、同志社墓地だけが目的ではなかった。桐野利秋(としあき)(1838-77年)の京都時代の恋人・村田さとの墓があると聞いていたからである。
 鬱蒼(うっそう)たる樹木が生い茂る中、ひとしきり探しまわって、ようやく見つけることができた。墓標は棒柱状で、表に「村田さと之墓」、裏に没年月日と享年が刻まれただけの簡略なものだった。
 桐野は文久2(1862)年、島津久光の率兵上京に従って上京し、以来、明治維新までほとんど京都で過ごしたといわれる。
 そして、なじみになったのが四条小橋(高瀬川沿い)の煙管(きせる)店・村田屋の娘・さとだった。
 桐野がさとを見初めたのはいつ頃(ごろ)だったかはわからない。しかし、ベタぼれだったことは確認できる。
 桐野は「京在日記」という日記を残している。慶応3(1867)年9月から12月10日までのおよそ100日間と短いが、大政奉還、坂本龍馬暗殺、王政復古政変など、幕末の激動期の事件が書かれていて興味深い。
さつま人国誌  そして日記という性格上、桐野の身辺事情も書かれている。さとや村田家の記事がたくさん出てくるのだ。村田家のことが初めて日記に登場するのは9月28日。「(山科の)帰りに村田内へ立ち寄る」とある。
 それから12月3日までの四十数日間で、24回も村田家関係の記事がある。そのうち、22回は桐野が村田家を訪問したもの。桐野は頻繁にさとに会いに行っていることがわかる。あとの2回は、さとの弟と思われる伊三郎のことで、一度は桐野が清水に遊びに連れて行ったこと。もう一度は桐野が病床にあったとき、伊三郎が菓子をもって見舞いに来ている。
 桐野とさとが恋仲だったことは間違いない。のちに西南戦争のころ、東京曙新聞(明治10年8月28日付)に「桐野利秋の遊蕩(ゆうとう)」という記事が載り、「御一新の際には京都に於(おい)て四条通りの村田屋といへる煙管屋の娘にてお駒といふ別品(別嬪(べっぴん))を外妾(がいしょう)とし」とある。名前が少し違うが、これがさとである。
 奈良迫ミチ氏によれば、さとは桐野と2人で撮影した写真をずっと肌身離さずもっていたという。ところが、桐野にはすでに鹿児島に妻久(ヒサ)がいた。文久3年3月に婚儀をあげていたという(「桐野利秋をめぐる女たち」)。
 つまり、桐野がさとと頻繁に逢瀬(おうせ)を重ねていたとき、すでに妻帯していたのである。この時代、小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通も京都妻がいたのだから、致し方ないのかもしれないが、さとの心中を察するにあまりある。
 明治になって、さとの家族が思い余って鹿児島に桐野を訪ねたが、桐野の妻帯を知らされてむなしく帰ったという。その後、傷心のさとは新島襄と八重夫妻に出会い、洗礼を受けてクリスチャンになった。さとの墓が夫妻の墓の近くにあるのはそのためである。
 さとは生涯、独身を通した。信仰によって心の平安を得たのだろうか。さとの墓石の裏には「大正10(1921)年8月11日就眠 享年八拾壱」と刻んである。さとは桐野の倍の長さの人生を生きたことになる。

(歴史作家・桐野作人) 

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