
■ 息子たちに真情を吐露
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| 長男・大久保利和(左)と次男・牧野伸顕(右)=ともに大久保利泰氏提供 |
幕末維新から明治初期まで一貫して中央政局の中枢に位置し、卓抜な政治指導力を発揮したのが大久保利通(1830−78年)である。
その晩年、大久保は多難な人生のなかでも重大な岐路に立った。「征韓論」とも呼ばれる明治6年(1873)の政変である。大久保は竹馬の友であり維新変革の盟友だった西郷隆盛と対立し、ついに訣別(けつべつ)する。
訪欧中の岩倉使節団が不在のため、西郷を事実上の首班とする留守政府が朝鮮国に西郷を使節として派遣することを決定し、1度は明治天皇の裁可を得ていた。
帰国した大久保はその決定を聞いて驚いた。いまだ政府は基盤が脆弱(ぜいじゃく)で全国統治を確立できていない。財政は大赤字で火の車である。そんな状態で対外戦争のきっかけをつくってはならない。
大久保はこの決定を覆そうと決意した。しかし、そのためには盟友西郷との対決を覚悟しなければならない。政府内では西郷派が多数派である。
一方、西郷遣使派遣に反対だった岩倉具視も大久保を参議に就任させようとした。しかし、大久保は固辞しつづけた。それには理由があった。硬骨で鳴る岩倉さえも土壇場で動揺して態度を翻す恐れがあったからである。大久保は岩倉に自分の方針に従うことを文書で確約させてから、参議就任を受けた。いったん政治闘争となるや、大久保の用意周到さと鬼気迫るほどの不退転の決意は、まさに鉄血政治家の真骨頂である。
されど、大久保とて人間である。対決の相手である西郷を前にして、維新のために死生と艱難(かんなん)を共にした数々の思い出が走馬燈(そうまとう)のようにめぐっていたはずである。そして、お互いをもっともよく知る同志と雌雄を決せねばならない運命を呪(のろ)ったに違いない。だが、大久保の大久保たる所以(ゆえん)は、それを私情として断念できる信念の強さにあった。
参議拝命直後、大久保は米国留学中の2人の息子彦之進(ひこのしん=のち利和=としなか)と伸熊(のぶくま=のち牧野伸顕)に宛(あ)てて一文をしたためた。『大久保利通文書』はその文書を「参議就任に付き家族に遺(のこ)せし秘書」と題しているが、内容からして遺書である。大久保は親しい政治家にさえも明らかにしなかった真情を2人の息子だけに打ち明けたのである。
それには、まず「即今の形勢が皇国危急存亡の秋(とき)」だという情勢認識を示し、この難から逃れようと思えば逃れられるが、それは自分の本懐ではないと、あくまで難局に立ち向かう決意を披瀝(ひれき)する。
参議を拝命したのは「この難に斃(たお)れて無量の天恩に報答奉らんと一決」したからだという。「この難、小子にあらざれば外にその任なく残念ながら決心いたし候」とも述べ、この問題は自分でなければ解決できないという自負をのぞかせる。
2人に対しては、「小子は一身上においては一点の思い残す事もない。ただ企望(きぼう)するところは、小子が憂国の微志(びし)を貫徹するので、二人も憤発して勉強心を正し、知見を開いて国家のために有用な人物になってほしい」と父親の立場から激励する。
最後に「小子の変を外国で聞くのは驚くかもしれない」と洩(も)らして筆を擱(お)いている。
「この難に斃れて」とか「小子の変」と書いたのは、大久保が最悪殺害されるのを覚悟のうえだったことを暗示している。それは西郷を支持する薩摩閥の近衛兵からの襲撃を予感していたのだろう。大久保は自らの命を賭けて西郷との戦いに臨んだのである。
(歴史作家・桐野作人)
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