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'08/07/05本紙掲載 
     
 

小松帯刀の死因

■ 長い闘病生活と肺結核

小松帯刀の主治医ボードウィンの宿舎だった法性寺=大阪市中央区中寺

 小松帯刀(たてわき)(1835−70年)が明治維新の立役者の1人であることは論をまたないが、政治家としての活動期間はわずか7年間にすぎない。しかも、生まれながらの病弱で、持病が政治活動に支障を来すこともたびたびあった。
 その最たるものは王政復古政変への不参である。慶応3年(1867)10月17日、小松は討幕の密勅(みちょく)を携えて、西郷隆盛や大久保利通とともに帰郷した。そして禁裏守護を名目に、藩主茂久(のち忠義)を奉じて1000人の藩士が上京することになった。このとき、小松も土佐の山内容堂と会見したのち、上京する段取りになっていた。
 ところが、小松は折悪(おりあ)しく持病の「足痛」を再発した。そのため、留守役だった大久保が小松の代わりに上京することになった。
 王政復古政変での小御所会議において、大久保が将軍慶喜の辞官納地を求める大弁舌を振るったことはよく知られている。
 歴史に「if(イフ)」は禁物だが、小松の病気がなければ、大久保の小御所会議での活躍はなかったのである。ここに歴史の綾(あや)なす面白さがある。王政復古政変での不在をきっかけに、小松の知名度が西郷・大久保のそれと逆転するようになったと思われてならない。
 小松がようやく上洛(じょうらく)できたのが、年が明けた翌4年1月25日のことだった。小松はさっそく新政府から徴士参与と外国事務掛に任命されるが、また持病がぶり返してしまう。
さつま人国誌 明治2年(1869)7月、小松は病気療養のため、鹿児島から大阪に向かい、オランダ人医師ボードウィンの治療を受けた。ボードウィンは大坂医学校教師として日本人医師の育成につとめていた。同年12月、小松が大久保に宛(あ)てた書簡には、闘病中の小松の苦衷(くちゅう)が述べられている。
 「何分、積年の煩(わずら)いのため、快気が難しく、ことにこの大寒中は格別の疼痛(とうつう)が起こり、甚だ難渋しており、8畳間の床の中で大弱りです。ボードウィンもよほど難しいと申し、あと4、5日養生してよくならなければ、ヨーロッパに同道して向こうの名医の診察を受けさせたいと申すので、困ったものです。でも、春になったら何とか薬効もあるかと思い、洋行のことは急がないことにします」
 小松の病状がよくないので、主治医のボードウィンは小松をヨーロッパで治療するつもりだったことがわかる。
 さて、小松の死因だが、これまでの経緯から、私は「足痛」だと推測していた。痛風、糖尿病、脚気(かっけ)などが考えられるが、糖尿病や脚気なら死に至ることもあるからである。
 ところが、ある説によれば、小松の死因は肺結核だという(『西郷隆盛全集』5)。残念ながら、その根拠は示されていなかった。わずかに五代友厚宛て小松書簡(明治元年10月8日付)に「少々の運動にて胸痛相発す」とあるのを確かめたのみだった。
 しかし最近、小松が肺結核だったことを示す史料を見つけた。明治2年12月8日、薩摩藩家老だった桂右衛門(のち久武)が小松に宛てた見舞状である(「小松氏書類写」『石室秘稿』所収)。
 「御肺病如何(いかが)と想像奉り、坂地(はんち)(大阪)良医も御座候由、拝承仕り候に付き、必ず速やかに御快然と存じ奉り候」
 桂は小松の病気を「御肺病」と書いている。この見舞状は小松の死の半年ほど前だから、これが死因だと推定して間違いないだろう。
 小松の35年の短い生涯は病気との闘いでもあったのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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