'08/06/21本紙掲載 
     
 

篤姫と和宮

■ 長崎留学で交流深める

北郷久信の肖像写真

 小松帯刀(たてわき 1835-70年)が中央政界に登場する直前、長崎に留学したことはあまり知られていない。
 文久元(1861)年1月、小松と北郷(ほんごう)作左衛門久信(1831-87年)は水雷術の伝習のために長崎留学を命じられたのである。
 2人とも、鹿児島城下の弁天波止(べんてんはと)台場の物主(ものぬし=隊長)をつとめていた。この台場は島津斉彬が海防強化のために新たに建設した台場のひとつ。
 小松は西洋の兵書・砲術書のある砲術書籍方に出入りし、また集成館の職員で反射炉や西洋砲術に詳しい竹下清右衛門や水雷の専門家だった宇宿(うしき)彦右衛門とも交流していた。北郷もまた西洋砲術の採用を藩当局に説いていた。2人の職務熱心が認められて長崎留学が許されたのだろう。
 北郷久信は小松と同じ一所持(いっしょもち)の門閥出身で、薩摩国平佐(現・薩摩川内市)の領主。禄高(ろくだか)は8200石余もある。北郷家は都城島津家の分家で、豊臣政権時代、北郷一雲入道時久の三男・加賀守三久が本家とは別に立てた家である。
 2人は1月21日、蒸気船天祐丸で長崎に赴いた。北郷の従者として随行した有島武(のち大蔵省関税局長)が長崎での2人の様子を語っている(「史談会速記録」合本二十八)。ちなみに、有島は有島武郎・有島生馬・里見弴(とん)の兄弟の父。
さつま人国誌 有島によれば、2人は「微行」だったという。微行とはこっそりと行動すること。小松はこのとき、「松山愿蔵(げんぞう)」という変名を使うと大久保利通に告げているから、十分ありうることである。北郷も同様に変名を使ったのではないか。
 有島によれば、長崎奉行の内意を得て、オランダ語の通詞(つうじ)(通訳)2人を雇い、碇泊(ていはく)しているオランダ軍艦に通ったという。その成果は「いちばん目星しく覚えてをるのは破裂弾、水雷、砲術の伝習から船の運転動作から皆講釈を聞かされた」というものだった。
 水雷や砲術だけでなく、蒸気船の運転技術まで伝習したことは、その後の2人の進路にも影響を与えている。小松は海軍掛となって薩摩藩海軍を掌握することになる。北郷も領地の桑木水流(くわのきつる)で、西洋型風帆船を建造しているし、戊辰戦争には軍艦乾行丸の艦長として、能登半島沿海で幕府軍艦と交戦している。
 長崎留学は2カ月の短期間だったが、帰国した2人はさっそくその成果を披露した。6月14日、城下北郊の磯海岸で藩主島津茂久(もちひさ/忠義)の臨席の下、水雷の実験が行われた。
 結果は上々だった。小松の日記にも「水雷余程(よほど)よく出来仕合せの至りに御座候」とある。21日、小松と北郷は藩主茂久から褒美として晒(さらし)一延を拝領した。
 この水雷は一種の電気水雷で、火薬を詰めた木箱に導火線を付けて海中に沈めておき、導火線の先端にある電気装置のスイッチを入れて通電することで爆発させる仕組みだった。
 その後の小松の活躍はよく知られているが、北郷については知られていない。北郷は大小の銃砲製造といった技術畑で活躍している。施条銃や大砲を製造して藩庫に納めたり、自邸で有志を集めて砲術操練を行ったり、藩の洋学校である開成所創設にも力を尽くした。
 維新後の北郷は版籍奉還に協力し、自ら私領を返上した。賞典禄300石を拝領したが、小松の逝去を知ってからは中央に出ず、郷里で悠々自適の生活を送った。

(歴史作家・桐野作人) 

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