
■ 婚家存続へ手携え奔走
和宮(かずのみや)(親子[ちかこ]内親王、1846−77年)は江戸時代、武家に嫁いだ唯一の皇女として、儚(はかな)くも数奇な運命をたどった女性である。
彼女が将軍家茂(いえもち)と婚礼をあげたのは文久2(1862)年2月のこと。家茂は他界した前将軍家定の養子という形で将軍になったので、天璋院篤姫はまだ若い家茂の養母であり、徳川宗家の女家長でもあった。
そのせいか、篤姫と和宮の関係は嫁と姑(しゅうとめ)の確執として描かれることが多い。それは武家風と御所風という2人の文化的なバックグラウンドの違いに基づくものだった。
一方で、2人には共通点も多い。まず2人とも短い結婚生活で、夫に先立たれたことである。篤姫はわずか1年半。和宮も4年半足らずである。
とくに和宮と家茂との惜別は涙を誘う。家茂は第二次幕長戦争のさなか、大坂で他界した。家茂が江戸を発(た)つとき、和宮は凱旋(がいせん)の折に郷里の西陣織を土産に所望した。しかし、その土産は夫の遺骸(いがい)とともに届いたのである。悲嘆に暮れた和宮の歌が切ない。
「空蝉(うつせみ)の唐織(からおり)ごろもなにかせむ 綾も錦も君ありてこそ」
2人のもうひとつの共通点は、ともに実家を敵とし、婚家を守るために奮闘したことである。運命の慶応4(1868)年、戊辰戦争の幕が開けると、旧幕軍は薩長を中心とする政府軍に敗退し、東征軍のために江戸も危機に直面した。
このとき、篤姫は老女幾島を政府軍に属する薩摩藩の隊長に派遣し、自分の一命に代えて徳川家の存続を嘆願した。東征総督府参謀の西郷吉之助(のち隆盛)は篤姫の嘆願書に目を通したとされる。
一方、和宮も母方のいとこで、政府軍の先鋒(せんぽう)総督・橋本実梁(さねやな)とその父・橋本実麗(さねあきら)にあてて、徳川慶喜の嘆願書とともに、徳川家の家名存続を願う自身の嘆願書も届けた。
そのなかで、和宮は「後世まで当家(徳川家)が朝敵の汚名を残すことはまことに残念です」とし、徳川家がお取りつぶしになるのなら、「私も当家滅亡を見ながら、永らえるのは残念なので、きっと覚悟致す所存です」と自害をにおわす一節さえ書き記した。
2人の実家への必死の働きかけもあって、徳川家は存続と決まり、江戸も戦火を免れることができたのである。
婚家最大の危機をともに手を携えて乗り切った篤姫と和宮は、過去の因縁を乗り越えて、一種の「戦友」のような意識を共有するようになったのではないだろうか。
明治の世になると、和宮はいったん帰京するが、明治7(1874)年に再び東京に移住する。東京で3年ほど暮らしたが、脚気(かっけ)を発症した。箱根・塔の沢で療養を兼ねて湯治したが、同10年9月2日、衝心の発作により他界した。奇(く)しくも夫家茂と同じ死因だった。遺言により、亡骸(なきがら)は家茂の眠る芝・増上寺に葬られた。
それから3年後、篤姫は熱海旅行の途次、和宮終焉(しゅうえん)の地を訪れた。日記に「過(すぎ)し頃、宮の君うせ給ひし高殿とて今も残れるに、むねふさがり、懐旧のなみだに袖をしぼり侍りぬ」と記して、和宮の死を悼み、次の挽歌(ばんか)を詠んだ。
「君がよわひ(齢)とどめかねたる早川の 水のながれもうらめしきかな」
早川の速い流れのように、貴女(あなた)も若いみそらで逝(い)ってしまったという嘆きだろうか。篤姫の胸にはこみ上げるものがあったのである。
(歴史作家・桐野作人)
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