
■ 赤味噌や高菜、樽柿も
最近、南日本新聞でも報じられたとおり、天璋院篤姫付きの年寄・幾島(1808−70年)の招魂墓が鹿児島の唐湊墓地で見つかった。
幾島は江戸詰めの薩摩藩士・朝倉景矩の娘。島津斉興(なりおき)の養女・郁姫(じつは島津斉宣[なりのぶ]の娘、1807−50年)が近衛忠煕(ただひろ)に嫁いだとき、幾島もその女中となった。
郁姫死後も近衛家に残っていたが、篤姫の将軍家入輿(じゅよ)に伴い、篤姫付きの年寄となった。それから、篤姫と島津斉彬の間にあって、将軍継嗣問題にも奔走した。篤姫より27歳年上で経験も豊かだったので、篤姫がもっとも頼りにした側近だった。
近年、島津氏の研究で著名な山本博文氏が「薩摩藩奧女中文書」と題する島津家江戸藩邸と大奥の間の79点に及ぶ往復文書を紹介した(「幕府大奥と薩摩藩奧の交際について」)。
そのなかに大奥の天璋院付き「つぼね」から島津家奧女中の小の嶋や花川などに宛てた書簡が10点以上ある。この「つぼね」が幾島のことだと明らかになっている。
幾島の書簡でもっとも面白いのが、島津家に赤味噌(みそ)を送ってほしいと依頼しているもの。
「毎度毎度おねだりごとばかりで誠にお気の毒ながら、お国の赤味噌、先だってお回しの分が払底してしまったようで、中年寄衆からどうぞどうぞお願いしてほしいと申し出があったまま、お願いしております。どうもお味噌は右のお品であれば、お上がりになるのですが、ほかの味噌ではお手をつけになられないのです。度々のおねだりで恐縮ですが、よろしく」
幾島は篤姫が薩摩の赤味噌でなければ、食事を召し上がらない、ほかの味噌ではダメだとこぼしているのが、何ともおかしい。
赤味噌の話は比較的知られているが、幾島の別の書簡にはこんなことも書かれている。
「高輪(たかなわ)でできた高菜のお漬物を相変わらずお回しいただきたく、よろしく取り計らい下さい」
幾島は薩摩藩の高輪藩邸(中屋敷)で作っていた高菜の漬物を所望している。高菜の漬物も篤姫の好物だったのではないだろうか。
篤姫の好物はほかにもある。篤姫付きの中臈(ちゅうろう)だった大岡ませ子の回想によると、「樽柿も下等な物だといって、上々では召し上がらなかったのを天璋院様はお上がりになりました」(「御殿女中の研究」)。
樽(たる)柿とは酒で渋抜きした柿のこと。大奥ではあまり好まれなかったようだが、篤姫は気にせずに食していたようだ。
ませ子によれば、篤姫はハマグリやアワビも好んだが、アサリやシジミは食べなかったという。また貝煮も好物だった。これはサザエの殻を使い、貝の穴をコンブでふさいでから、クワイ、海老、切り身、三つ葉、シイタケ(あるいはマツタケ)を入れて卵をかけたものだそうだ。食材の取り合わせからすれば、茶わん蒸しに近いものか。
篤姫の墓は東京・上野の寛永寺にある。墓の横にビワの木が植えてある。徳川家によれば、篤姫の好物だったので、供養のために植えたとのこと。
赤味噌や高菜はやはり薩摩の味であり、篤姫にとって忘れられなかっただけではなく、はるかに遠い郷里への思いにもつながっていたのではないだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
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