
■ 今熊野に義久の逆修墓
京都・東山の南、月輪山(つきのわやま)の麓(ふもと)に天皇家ゆかりの泉涌寺(せんにゅうじ)がある。その塔頭(たっちゅう)のひとつが今熊野観音寺。塔頭というには大規模で、独立した寺院のようである。
この寺は西国33カ所霊場第15番札所として知られる。奥まった静寂な境内には、多くの参拝者の姿が見られる。
ここに島津義久(1533−1611年)の逆修(ぎゃくしゅ)墓があると聞いていたので拝観にでかけた。逆修墓とは、生前にあらかじめ死後の冥福を祈って建立した墓のこと。
本堂裏に墓域が広がっている。その一角に藤原忠通(ただみち)、九条兼実(かねざね、忠通の子)、慈円(じえん)僧正(兼実の弟)と、鎌倉期の藤原氏の供養塔が3基並んでいる。
その左手にめざすものがあった。大小5基の五輪塔が並んでいる。現地でじかに見てわかったが、これらの五輪塔は黄褐色の凝灰岩で、おそらく鹿児島産の山川石だと思う。島津家の菩提(ぼだい)寺・福昌寺跡墓所にある宝篋(ほうきょう)印塔(いんとう)と同じ材質。わざわざ鹿児島から運んできたものだろう。
中央の大きな五輪塔が義久の逆修墓。下部の方形の石正面に「□(不明字)彭塔逆修/慶長三年戊戌(ぼじゅつ)□□」、右側面に「藤原氏島津義久」と刻んである。
向かって左隣の五輪塔には「薩州住平田太郎左衛門尉増宗」、「宗参覚阿逆修 慶長三年卯月下旬吉日」とある。これは義久の家老・平田増宗(1566−1610年)のこと。
また右隣の五輪塔は方形の石正面に「□栄」とある。剥落(はくらく)があってよく読み取れない。一説によれば、ここには「珠鏡逆修春栄」と刻まれていたという(寺田貞次「京都名家墳墓録」)。この墓の主も増宗同様に、義久の側近だろう。「珠鏡」もしくは「春栄」が出家名か戒名だと思われるが、誰なのかよくわからない。外側の五輪塔には「守養」と刻んだものもある。今後、該当者を調べてみたい。
さて、義久と増宗の五輪塔に刻んであるように、これらの逆修墓は慶長3(1598)年4月下旬に建立されている。
この1カ月ほど前に、豊臣秀吉は盛大な醍醐の花見を開いた。在京して伏見城に詰めていた義久もそれに出席している。そしてこの年の8月に秀吉は他界している。
豊臣政権の混乱期が始まろうという頃(ころ)に建てられたことがわかる。では、なぜ今熊野観音寺に建てたのか、また、どのような目的があったのだろうか。
義久がこの時期に同寺を参拝したという史料もないようだし、島津家と同寺の由緒もよくわからない。同寺は真言宗泉涌寺派に属するのに対し、島津家の菩提寺・福昌寺は曹洞宗で、宗派のつながりも考えにくい。
ところで、逆修墓は生前に建立することによって、造営主の健康や長寿を祈願する意味あいをもっている。義久は当時、66歳。長寿を願う気持ちもわかるし、増宗はじめ側近たちもそれを望んでいたのではないだろうか。
なお、逆修には、老いた者が生き残って、若くして死んだ者の冥福を祈る逆縁の供養という意味あいもある。
当時、朝鮮半島では、出征した弟義弘の率いる島津軍が苦戦を強いられ、多くの戦死者や病死者を出していた。ほとんどは若者たちである。この逆修墓は年老いた義久が異国の地で命を散らした若者たちの冥福を祈る目的もあって、建立されたと考えられないだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
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