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'08/05/24本紙掲載 
     
 

京都の島津家ゆかりの墓(中)

■ 佐土原藩祖、京都で病没

正面右が島津以久の墓。手前に並ぶのが殉死者の墓=京都市東山区

 京都・祇園の八坂神社の裏手に、祇園祭の山車(だし)の形をした祇園閣が聳(そび)えている。界わいでいちばん目立つ建造物。
 ここが大雲院である。寺名は織田信長の嫡男・三位中将信忠の法号「大雲院殿三品(さんぽん)羽林(うりん)仙巌(せんがん)大居士」にちなむ。
 大雲院ははじめ、この場所にはなかった。天正10(1582)年6月、本能寺の変において、信忠の自刃した二条御所跡(現・京都市中京区烏丸御池西入ル)にあった。
 ときの正親町(おおぎまち)天皇は本能寺の変で自刃した信長・信忠の死を悼み、浄土宗の高僧・聖誉貞安に命じて建立させたもの。その後、豊臣秀吉時代に寺町四条南に移転し、さらに戦後の昭和48(1973)年、現在地に移った。
 境内には、信長・信忠父子の供養塔が立ち、寺も2人の位牌(いはい)、肖像画、木像などを所蔵している。また世紀の大盗賊・石川五右衛門とされる墓があることでも知られている。
 以前、大雲院に信長・信忠の供養墓を訪れたとき、その手前に「丸十」の家紋を透かし彫りした石製の門扉があったのに気づいた。
さつま人国誌  あとで調べてみると、それは薩摩藩の支藩である佐土原島津家の島津以久(ゆきひさ)(1550−1610年)の墓だったので、とても驚いた覚えがある。
 以久は島津貴久の次弟・忠将(ただまさ)の嫡男で、義久・義弘兄弟の従弟(いとこ)にあたる。戦国期から豊臣期まで垂水を領していたが、慶長8(1603)年10月、征夷大将軍となった徳川家康から日向佐土原を拝領して、佐土原藩の藩祖となった人物。
 関ヶ原合戦で敗北した西軍側に属したにもかかわらず、島津家は本領を安堵(あんど)されたといわれている。しかし、敵中突破して帰国した義弘の身代わりとなって討ち死にした甥(おい)の豊久が領する佐土原(2万8600石)は召し上げられ、天領となったことはあまり知られていない。
 その後、島津本家と徳川家康の和睦(わぼく)交渉に伴い、島津本家は佐土原の返還を請願した。それとは別に、以久も徳川家との誼(よしみ)を強調して、佐土原拝領を願い出ていた。
 以久の交渉が実を結び、慶長8年10月、家康は以久を伏見に呼び寄せ、豊久の遺領を与えたのである。
 以久は家康の「御恩」に感謝し、懸命に徳川幕府に奉公した。まず、翌9年、側室とその子忠興(三男、第2代藩主)を人質として伏見に差し出した。
 徳川幕府は大坂に太閤(たいこう)秀吉の遺児・秀頼が健在だったため、その包囲網を形成した。それは天下普請と呼ばれる大城郭の建設である。江戸城から始まり、駿府、名古屋、大津、伏見などの諸城が次々と築造され、諸大名が工事にかり出された。
 その一環として、同14(1609)年から丹波篠山(ささやま)城の普請が始まった。これは家康の実子とされる松平康重の居城である。この普請には池田輝政(播磨姫路城主)を総奉行にして、西国15か国から20名以上の大名が動員された。佐土原藩もそのひとつだった。
 翌15年、以久は普請の督励のため上京するが、4月9日、伏見で病を発して他界した。享年61歳。
 その後、家来の日高大炊(おおい)左衛門、猿渡左近之(さこん)の允(じょう)、肝付治部左衛門、久保権太兵衛の4人が殉死した。4人の墓も以久の墓を囲むように建っている。

(歴史作家・桐野作人) 

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