
■ 義久の後妻、本能寺に眠る
不思議なことに、京都にある信長ゆかりの寺院を訪ねると、なぜか島津家ゆかりの人々も時折眠っているのに気づく。単なる偶然の一致だが、とても面白い現象である。
そのひとつが本能寺。信長が最期を遂げた場所としてあまりにも有名である。そこに島津家ゆかりの墓があるなんて、とても意外ではないだろうか。
信長が自刃した本能寺は当時、四条坊門通西洞院(現・中京区油小路通蛸薬師下ル東側)にあった。しかし、現在の本能寺は京都市中京区寺町通り御池下ルにある。
これは天正19(1591)年、豊臣秀吉の京都改造事業によって、寺院はほとんど現在の寺町通りに集められ、本能寺も移転を余儀なくされたためである。
その墓があるのは新しい本能寺のほうである。境内の本堂右奧にある信長供養塔の左側に、縦三段に宝篋(ほうきょう)印塔が並んでいる。手前から九代将軍徳川家重夫人(伏見宮邦永親王の一女)、菅中納言局庸子(かんちゅうなごんのつぼねようこ)、そしていちばん奧にあるのが島津義久夫人である。 刻銘によれば、没年月日は元亀3(1572)年12月23日。戒名(院号)は「円信院殿妙蓮幽儀」とある。
これに該当するのは、義久の2番目の夫人・種子島氏である。彼女は鉄砲伝来のときの種子島の島主・種子島時尭(ときたか)の二女。彼女の生母は日新斎(じっしんさい)忠良の娘だから、義久とはいとこ同士の縁組だった。
縁組した年はよくわからないが、彼女が産んだ最初の子(義久の二女)である御さやが永禄6年(1563)6月生まれだから、同5年以前である。
彼女は義久との間にもう1人の女子を産んだ。三女の亀寿である。亀寿といえば、「ジメサア」(持明夫人=島津家久夫人)の別名のほうが有名。
亀寿は元亀2年4月に誕生している。とすると、生母の彼女は亀寿がわずか2歳のときに他界したことになる。産後の肥立ちが悪かったのだろうか。亀寿は母親の顔さえ知らなかったはずである。
それでは、彼女の墓がなぜ本能寺にあるのか。それは彼女の実家である種子島氏が法華宗の信徒だったからだろう。本能寺は京都法華宗15カ寺の一流である本門流の本寺で、当時、法華宗では最大勢力を誇っていた。種子島氏の菩提寺・本源寺は本能寺の末寺だった。そうした本末関係から彼女の墓が本山に建立されたのだろう。
では、誰が建立したのか。じつは、本能寺の寺務所に問い合わせてみたのだが、たび重なる災害によって由緒がまったくわからなくなっており、施主も建立年代も不明という回答だった。
となると、推定するしかないが、該当者はおそらく義久と亀寿に絞られる。私は亀寿だろうと思っている。3基の宝篋印塔のうち、2基は江戸時代のものだから、種子島氏のも寺町移転後か江戸時代の建立だろう。
亀寿は義久が豊臣秀吉に降伏した天正15(1587)年から慶長5(1600)年まで、一時帰国を除き、京都・大坂で長く孤独な人質生活を送った。
供養塔の建立が回忌法要にちなむと考えれば、人質時代の文禄3(1594)年がちょうど彼女の23回忌にあたる。この供養塔は、亀寿が顔さえ知らぬ亡き母への追慕の情で建立し、その孤独を癒す祈りの対象だったのではないだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
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