
■ 養子へ「英語より和漢」
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| 薩摩藩英国留学生たちを写した古写真。後列左から2人目が町田申四郎(尚古集成館所蔵) |
小松帯刀(たてわき)の家族関係に触れてみたい。
肝付尚五郎が小松家の継目養子となったのは安政3(1856)年正月。小松家の当主清猷(きよみち)が急死したため、その妹お近の婿養子という形で家督を継いだ。
小松とお近との間には子どもができなかった。一方、小松は京都暮らしが長かったため、京都妻もいた。よく知られているのはお琴である。もとは芸妓(げいこ)だったと思われる。
お琴は小松との間に3人の子をもうけている。上から安千代、辰次郎(早世)、於須美(おすみ)である。お琴は小松が他界してから4年後の明治7(1874)年、26歳の若さでなくなっている。お琴は吉利郷(現・日置市日吉町)の園林寺にある小松家墓所に葬られ、小さな墓標が立っている。小松の死後、安千代と於須美はお琴とともに大阪に住んでいた。お琴がなくなると、幼い2人は五代友厚に保護されたあと、鹿児島のお近に引き取られる。その後、安千代が小松家の家督を継ぎ、清直(1865−1918年)と名乗る。
あまり知られていないが、小松にはもう1人の京都妻がいた。名前を「祢政」(於政=おまさ=か)という。祢政は明治元(1868)年10月、清揚(きよあき)という男子を産んでいる(「小松帯刀系図」)。清揚はのちに竹崎家の養子になっている。
小松の係累はこれだけではない。じつは小松には養子がいた。申四郎(しんしろう)実積(さねつみ)(1847−?)という。小松家と同じ門閥である町田家の出身。当主久長の四男で、長兄は東京国立博物館の創設者で知られる町田久成。
申四郎の母は、小松の養父にあたる小松清穆(きよあつ)の長女国子。義理ながら、申四郎は小松の甥(おい)にあたる。申四郎が養子になったのは慶応3(1867)年1月。21歳のときである。小松に宛てた藩当局のお達しに「別段の思召を以て」と書かれていることから、藩主島津茂久(もちひさ)か久光のお声がかりでの養子縁組だった。
町田家は開明的な家で、父久長は孔孟の学問は時代遅れだとして、子どもたちに蘭学を学ばせた。申四郎も藩営の洋学校である開成所に入学し、蘭学専修生となった。そして慶応元(1865)年3月、兄久成、弟清蔵らとともに英国留学生となって渡欧した経歴の持ち主である。
申四郎は翌2年夏までにイギリスから帰国しているから、小松の養子になったのはそれから半年ほどたってからになる。
小松が養子になったばかりの申四郎に宛てた書簡(慶応3年1月24日付)がある。それは一種の訓戒状になっている。
「文武の修業は壮年までである。いまのうちに十分精を出して和漢の学文を根本に立てなければ、たとえ、英語が達者になっても詮(せん)ないことだと考える。第一に和漢の道を研究してほしい。私も幼年のころから和漢の学に乏しかったため、今日、天下の人々と交わるたびに、とても困っている」
申四郎はイギリス帰りだから、英語に堪能だったはずである。その自負をへし折るように、養父の小松が英語よりも和漢の学だと訓戒したのである。国語と英語のどちらが先かという現代日本の教育事情を彷彿(ほうふつ)とさせるようである。
(歴史作家・桐野作人)
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