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'08/03/22 本紙掲載 
     
 

「美貌」の大立者・小松帯刀(5)

■ 「足痛」が政治活動制約

小松帯刀の墓=日置市日吉町

 小松帯刀(たてわき)、西郷隆盛、大久保利通が討幕の密勅をもって帰郷したのは慶応3(1867)年10月26日のこと。
 徳川慶喜が大政奉還を奏上すると、10月15日、朝廷はそれを勅許すると同時に、10万石以上の大名に上京を命じた。とくに島津久光、茂久(もちひさ)父子の上京を切望していた。小松たちの帰郷は藩主父子の上京を促すためだった。
 じつをいうと、薩摩藩内には討幕反対派や慎重派が意外と多かった。しかし、討幕の密勅が効力を発揮したのか、朝廷守護のために藩主茂久みずから率兵上京するという形で、すんなりと藩論が統一された。
 それに伴い、小松は藩主一行に先行して土佐に立ち寄り、山内容堂に上京を促すことに決まった。ところが、帰郷後、小松は持病の「足痛」を再発し、人の助けを借りなければ起居もままならないほどの重症となり、やむなく桜島の古里温泉で療養することになった。
 そのため、土佐には小松に代わって大久保が向かい、また家老としては岩下方平(みちひら)が代わって茂久に同行することになった。
 小松は生来、病弱だった。「小松帯刀伝」によれば、17歳のころから多病で、母はこれを憂えて、勉学をやめさせ保養させた。そのとき、慰めに薩摩琵琶をよく弾いたという。
さつま人国誌 多病のうち、小松の宿痾(しゅくあ)となったのが「足痛」である。その症状が史料に現れるのは万延元(1860)年6月、26歳のとき。それ以前から発症していたのだろう。
 文久2(1862)年、久光が率兵上京し、さらに勅使とともに江戸に下って幕政改革を要求した。江戸滞在中、小松は家老の島津登(のぼり)を通じて、足痛のため乗物(のりもの)御免(ごめん)の許可願いを幕府に出して許されている。
 このころ、小松は江戸家老座出仕で家老に準じていた。家老ならば、外出には乗物を用いるしきたりだった。しかし、乗物の中では膝(ひざ)を折らなければならない。小松にはそれが苦痛で、乗物御免を願い出たのだろう。
 小松が「足痛」で上京できなくなったことは、予想以上の憶測を生じさせた。たとえば、土佐藩の後藤象二郎は小松と今後のことを深く申しあわせていたらしく、「帯刀の足痛には甚だ失望した。のみならず、(足痛も)怪しいものだ。もしかして国許(くにもと)で帯刀の説が立たなくなり、内府公(慶喜)や私たちに面目がなくて上京できなくなったのではないか」(「丁卯[ていぼう]日記」)と、小松の仮病を疑った。
 越前藩の松平春嶽(しゅんがく)などはもっとすごい。
 「この度、小松が上京してこなかったのは、幕府をはじめ、天下の人目が疑うところである。(中略)帯刀は足痛で温泉に行ったというが、その実、藩論が分裂して、帯刀の党は勢力が弱く、過激な大久保・西郷の党が旺盛になった。帯刀は桜島に流刑になったとのこと、哀惜の至りである」(「松平春嶽未公刊書簡集」)。
 小松の「足痛」は事実であり、政治的背景はない。また小松と西郷、大久保との分裂も考えにくいし、流刑など論外である。藩外ではここまで小松の動静が憶測を呼んでいた。これは京都政局における小松の存在感を逆に示しており、小松への期待が大きかった裏返しでもある。
 このように、「足痛」は小松の政治活動を著しく制約した。そればかりか、おそらく死因にも直結したと思われる。「足痛」の病名は何なのか。痛風、脚気(かっけ)衝心(しょうしん)、糖尿病など、いろいろ考えられるが、よくわからない。

(歴史作家・桐野作人) 

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