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'08/03/15 本紙掲載 
     
 

「美貌」の大立者・小松帯刀(4)

■ 大政奉還の陰の功労者

大政奉還の舞台となった二条城(京都市中京区)

 小松帯刀(たてわき)の大きな功績としてあげられるのが大政奉還である−。と書けば、首をひねる人もいるだろう。
 大政奉還は慶応3(1867)年10月13日、将軍徳川慶喜が京都・二条城で諸藩の代表を集めて表明したもの。慶喜にそれを働きかけたのは土佐藩で、坂本龍馬が構想した「船中八策」をもとに、後藤象二郎が建白書を慶喜に提出して実現した。だから、もともと土佐藩の仕事だという印象がある。
 しかし、大政奉還は慶喜がその意志を表明するだけで実現するほど単純なものではなかった。政権を朝廷に返上するといっても、それが形だけに終わる可能性もあったのである。
 二百数十年つづいた幕府政治の復活を望む徳川家の親藩、譜代層は多かった。その急先鋒は会津藩。同藩の用人・手代木(てしろぎ)直右衛門は、大政奉還と聞いて「失望の極地」と嘆きながらも、「王政復古など思いも寄り申さず」、「旧幕府の御制度」がなければ、治まりがつかないだろうと語り、公然と大政奉還に異議を唱えていた(「丁卯(ていぼう)日記」)。
 「旧幕府の御制度」に逆戻りさせないだけの決意と具体的な方策が求められていた。そこで登場するのが小松である。
さつま人国誌 小松は薩摩藩の代表として二条城に登城していた。慶喜から意見を求められると、「時勢御洞観(どうかん)の英断」と評価しながらも、今日にも禁裏に参内して大政返上の旨を奏上すべきだと忌憚(きたん)なく述べたと、そば近くにいた松平定敬(さだあき)(桑名藩主)も証言している。
 さらに翌14日、小松は再び二条城に登城して、慶喜とひざ詰めで談判した。そして慶喜に次の5カ条を受諾させた。
 1、政権返上を朝廷に早く奏上すること。
 2、朝廷の会議で長州藩への寛大な処分を決定すること。
 3、賢侯(雄藩の藩主)を召集すること。
 4、征夷大将軍を辞めること。
 5、大宰府にいる五卿(三条実美(さねとみ)など)を帰京させ名誉回復すること。
 この5カ条は大政奉還から王政復古に基づく新政体を樹立させるための具体的な措置だった。とくに将軍辞職は幕府復活にとどめを刺すものである。
 ほんの1年前なら、慶喜が絶対受けいれられない条件ばかりである。小松も慶喜の変貌(へんぼう)に驚いた。大久保利通にあてた書簡のなかで、「殊(こと)の外(ほか)の運びに相成り」「実に意外の事」だとしながら、「王政復古の義十分に相立(あいたつ)」ものと、慶喜の決断を肯定的に評価している。
 慶喜もまた小松を信頼していた。翌15日、慶喜は参内すると、政権移行の実務は朝廷と小松の間で相談してやってほしいと依頼しているほどである。
 小松も長い間、感無量だったのではないか。斉彬も久光も慶喜を擁立しようとしてきたし、小松もそのために働いた。しかし、慶喜は途中から幕府の専断政治へと舵(かじ)を切り、薩摩藩に煮え湯をのませる。小松は一度、慶喜に幕府守旧派と手を切るよう働きかけたが、徒労に終わった。以後、対立はますます激しくなり、薩摩藩は武力討幕も辞さぬ覚悟を固めたほどである。
 それだけに、小松は慶喜に対して複雑な思いを抱いていた。だが、慶喜の決断は遅ればせながらこれまでの対立を解消するものだと、小松の目に映った。小松は5カ条にあった諸侯会議開催のため、藩主島津茂久(もちひさ)の上京を促そうと、西郷隆盛、大久保らと帰国する。しかし、そこに意外な落とし穴が待っていた。それは次回に。

(歴史作家・桐野作人) 

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