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'08/02/23 本紙掲載 
     
 

「美貌」の大立者・小松帯刀(1)

■ 言動、立ち振る舞い新鮮

小松帯刀(尚古集成館蔵)

 今年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、小松帯刀(たてわき)(1835−70年)が篤姫の相手役を務め、一躍脚光を浴びている。
 幕末の薩摩藩において、西郷隆盛、大久保利通と並び称される代表的人物でありながら、これまで注目されるどころか、むしろ、忘れられていたことのほうが不思議だった。
 小松は諱(いみな)を清廉(きよかど)といい、喜入領主の肝付兼善(かねよし)の三男として生まれた。はじめ肝付尚五郎(なおごろう)と名乗っている。肝付家は代々、家老を出す門閥家(一所持=いっしょもち=、5500石)だった。
 尚五郎は、同じ門閥家で日置郡吉利(よしとし)領主の小松家(2600石)の養子となった。小松家の当主・清猷(きよみち)が若くして琉球で客死(かくし)したため、その妹・お近の婿となり、小松帯刀と名乗った。
 小松は天保6年生まれだが、私は「花の天保6年組」と呼んでいる。大河ドラマの主人公・篤姫も同い年。ほかにも坂本龍馬、土方歳三、松平容保(かたもり)なども同年で、有名人が多い。
さつま人国誌 小松が同時代の人たちにどのように評されていたのか。意外にも外国人が率直に述べている。英国外交官のアーネスト・サトウである。サトウは日本語の読み書きに達者で、日本式の名乗りを「薩道(サトウ)」と書くほど、親薩家でもあった。その著「一外交官の見た明治維新」上で、慶応3(1867)年2月ごろの小松の印象を次のように述べている。
 「小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で、家老の家柄だが、そういう階級の人間に似合わず、政治的な才能があり、態度が人にすぐれ、それに友情が厚く、そんな点で人々に傑出していた。顔の色も普通よりきれいだったが、口の大きいのが美貌(びぼう)をそこなっていた」
 これは小松が吉井幸輔(のち友実)とともに、大坂の英国公使の宿舎を訪ねたとき、サトウが書きつづった感想である。サトウは小松を絶賛している。それがお世辞ではないことは、最後の一節が小松の容貌に対する「オチ」になっていることでもわかる。
 小松の肖像写真を見ると、面長で秀麗、額が秀でた白皙(はくせき)な顔だちながら、サトウが観察したように、やや口が大きいかもしれない。
 サトウは職務柄、幕府や諸藩の要人と数多く会い、とくに藩を動かす家老たちの多くが無能で無責任なのに辟易(へきえき)していただけに、颯爽(さっそう)たる小松の言動や立ち居振る舞いが、サトウに新鮮な印象を与えたのだろう。
 もっとも、この記述にはつづきがある。
 「彼(小松)は、脂肪の多い肝のパテ(肉入りパイ)や、薄い色のビールをうまそうに、ぱくつき、飲みほし、しまいにはあまりに上きげんとなり過ぎたので、この宿舎には徳川の家臣も多勢いることとて、うっかり秘密をもらしはせぬかと、はらはらした」
 小松は洋風の料理や酒にも目がなかったようである。そして酒が入ると、陽気になって大声を出した。
 同年10月、徳川慶喜が大政奉還を宣言した。それを受けて、小松は土佐の後藤象二郎とともに関白・二条斉敬(なりゆき)を訪ねたが、二条関白はあいまいな態度で慶喜の大政返上を受理しようとしなかった。すると、小松が「薩摩訛(なま)りの蛮音張り上げ、『さらば、拙者どもにも覚悟あり』と威嚇」したので、受理せざるをえなかったという(大町桂月「伯爵後藤象二郎」)。小松は美貌の優男に似合わず、声が大きく、ときに断固とした態度を示した。

(歴史作家・桐野作人) 

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