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'08/02/16 本紙掲載 
     
 

知られざる逸材・中原猶介(中)

■ 北越戦争で治療を拒絶

長岡城を模した長岡市郷土資料館

 文久3(1863)年7月の薩英戦争後、中原猶介(なおすけ)は自宅で砲術塾を開いた。門人には、大山彦右衛門、野津七左衛門・七次兄弟(鎮雄・道貫(みちつら)、辺見十郎太、村田新八、川村与十郎(純義)、岩元平八郎、磯永才之丞、大河平武輔、有馬休八、岩城彦四郎ら錚々(そうそう)たる人物がいた。
 中原の砲術家としての真価が発揮されたのは、やはり戦争だった。翌年7月、長州藩兵が禁(きん)裏(り)御所に押しかけて、禁門の変が勃発(ぼっぱつ)した。中原は西郷吉之助や伊地知正治とともに、軍賦役(ぐんぶやく)の重職にあった。
 薩摩藩は禁裏九門のひとつ、乾(いぬい)御門を守っていたが、その南の中立売(なかだちうり)御門を守備していた筑前藩兵が長州の国司(くにし)信濃勢の猛攻で崩れた。そのため、薩摩藩から西郷、吉井幸輔らが援軍に向かったが、西郷が負傷するなど「大難戦」といわれるほど苦戦した。
 そこへ、中原率いる砲隊が西の室町通りから長州勢の背後に回り込んで砲撃を加えたために、長州勢は大打撃を受けて敗走した。中原の砲隊の奮戦は内田仲之助(ちゅうのすけ)(京都留守居役)、大山格之助(のち綱良)、伊知地正治らの報告書に特筆されている。
 このとき、中原が使用した大砲は「舶用忽砲(はくようこつほう)」(船舶用の小型旋回砲か)で、小型艦船に積載された砲だったと思われる。また砲弾の種類は「葡萄(ぶどう)丸」とか「榴(りゅう)散弾(さんだん)」だったとある。「葡萄丸」は葡萄弾のことで、一種の散弾。砲弾のなかに80匁(もんめ)(約300グラム)の玉が7個入っていた。炸裂(さくれつ)弾ではなかったが、威力があった。
さつま人国誌 なぜ、中原が海軍砲をもっていたのか。それは中原の砲隊が「兵庫修行人数」によって編成されていたからだろう。これは勝海舟が開いた幕府の神戸海軍操練所の生徒たちで、伊東祐亨(すけゆき)(のち連合艦隊司令長官、元帥)をはじめ、薩摩藩から20人ほど留学していた。中原は勝と交流があった。勝から海軍砲と生徒を拝借したのではないか。
 戊辰戦争でも、中原は活躍した。慶応4(1868)年正月3日、中原は一番砲隊指引(さしひき)(隊長)として伏見に駐屯、幕府方の会津藩、新選組の精鋭と激突した。伏見奉行所の門を開けて突進してきた敵との距離はわずか30−40間(けん)(約50−70メートル)。
 中原は眼前まで迫った敵に対して、麾下(きか)の大砲三門を発射した。霰弾(散弾)が2発、榴弾が1発である。榴弾は炸裂するからことのほか威力が強い。幕府軍が狙った白兵戦は画餅(がべい)に帰し、大損害を出して撃退された。
 中原の最後の戦いとなったのが同年7月の北越戦争だった。長岡藩家老の河井継之助(つぐのすけ)の采配のために、政府軍が苦戦していた。中原は病気で郷里に引きこもっていたが、病をおして救援に出陣した。参謀という肩書だから、同輩の黒田了助(のち清隆)や長州の山県有朋と同格だった。
 7月25日未明、長岡城の政府軍は河井率いる同盟軍に急襲された。有名な八町沖からの長岡城奪還作戦である。このとき、中原は信濃川堤に宿営していた。群がり来る敵を前に陣頭で采配をふるったが、一弾が中原の右膝(ひざ)頭を貫いた。
 中原は柏崎の野戦病院に収容されたが、頑として治療を拒否し、「所詮(しょせん)治癒しないから、服薬治療の要はない。我に顧慮せず、1日も早く勝利せよ」と述べたという。8月7日、中原他界。享年37歳だった。
 辞世は「よしや身は越路(こしじ)の雪にうづむ(埋む)とも とくる(解くる)清水に名をや流さむ」。

(歴史作家・桐野作人) 

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