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'08/02/09 本紙掲載 
     
 

知られざる逸材・中原猶介(中)

■ 薩英戦争への深い洞察

中原猶介の生家跡に立つ顕彰碑=鹿児島市上之園町の甲南高校

 前回、中原猶介(なおすけ)が集成館事業の掛員(かかりいん)になったことを述べた。
 中原は事業のほとんどにかかわったと思われるが、とくに蒸気船ひな形の建造には、市来正右衛門(のち四郎)、宇宿(うすき)彦右衛門とともに、中原が中心的な役割を果たした。
 安政元(1854)年3月から、磯龍洞院近くの海岸で、長さ約20メートル、15馬力という蒸気船の建造を始めた。完成したのは翌2年4月22日だった(「新納久仰雑譜」一)。
 6月9日に城下新橋下で試運転が行われた。もっとも、結果は「蒸気船よく廻りかね候」(「薩藩海軍史」上)とあり、不具合があったようである。中原の無念が察せられる。
 中原はほかに、薩摩切子の製造にもかかわっている。薩摩切子は独特の紅色を出すのが至難の業だった。中原と宇宿は江戸から来た腕利きの硝子(がらす)細工職人の四本亀次郎とともに、数百回の実験を重ねた末に成功する。その出来栄えは上々で、「当時薩摩の紅硝子(ビードロ)と都鄙(とひ)讃賞(さんしょう)せり」(「島津斉彬言行録」)と、江戸をはじめ各地で好評だった。
 しかし、同5(1858)年7月、島津斉彬が急死する。集成館事業も一時中止され、中原も失職した。中原は飄然(ひょうぜん)と国を去り、江戸で江川塾に入る。この塾は江川坦庵(たんあん)(1801−55年)が開いたもので、当時、最先端の海防と砲術を教授し、門人4000人と呼ばれるほど盛大だった。佐久間象山(しょうざん)や川路聖謨(としあきら)もその門弟だった。中原も斉彬存命中の江戸留学のとき、一時通っていたことがあった。
さつま人国誌 中原の進路はこの入塾で決まったといってよい。砲術家の道を歩み出すのである。全国から秀才が集まっているなかで、中原はたちまち英才をあらわした。文久元(1861)年5月には塾頭兼学頭、同年12月には師範代となる。そして高島秋帆(しゅうはん)、下曽根金三郎といった著名な砲術の大家とともに教鞭(きょうべん)をとるほどになった。
 だが、翌2年8月、薩摩藩が生麦事件を起こすと、中原は離塾を余儀なくされる。英国艦隊が来襲する恐れがあるなか、中原の砲術が藩領防衛のために不可欠だったのである。
 翌3年の薩英戦争の直前、中原は長崎に出張したが、急な病を得て帰国できなくなった。そのため、長州藩の下関海峡での砲撃の様子を研究して、英国艦隊を迎え撃つ対策をまとめて鹿児島に報告している。
 その書簡には、鹿児島城下と桜島の距離が1里ほど(約4キロ)と広く、大口径の24斤砲でなければ射程が届かないことを明らかにし、その弱点を補うには、桜島の手前にある神瀬に急ぎ砲台を築くことだと提言している。また同時に、斉彬時代に製造した水雷を神瀬近辺に7、8カ所敷設することも提言していた。
 中原は西洋諸国の砲術が一新され、大砲は従来の円弾を使わなくなり、すべて強力な長弾(アームストロング砲)を装備していることを知っていた。
 それにくらべて、薩摩藩を含むわが国の銃砲が「彼の(欧米の暦の)1850年前後」という、10年以上遅れた装備であり、「長尖(ちょうせん)弾を用る砲器未だ備はらざるのみ缺事(けつじ)(欠点)」だと述べて、「長尖弾」(アームストロング砲)に太刀打ちできないだろうことを予見し、警告を発していた。
 実際、薩英戦争では、薩軍も奮戦したが、英国艦隊の長距離砲が猛威を振るい、城下を焼くのを防ぐことができなかった。中原の見通しが的中したといえよう。

(歴史作家・桐野作人) 

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