
■ 招聘されて英語を教授
昨年10月、郵政民営化が実現した。明治4(1871)年に郵便制度を創始して「郵便の父」と呼ばれた前島密(ひそか)(1835−1919年)は、この大きな国策の変更にどのような思いを抱くだろうか。
前島は幕末、薩摩藩に招かれて教鞭(きょうべん)をとったことがある。慶応元(1865)年1月から1年近く、薩摩藩が創設した洋学校「開成所」で英語を教えたのである。
前島は越後国頸城(くびき)郡津有村の豪農・上野家に生まれた。天璋院(てんしょういん)篤姫や小松帯刀(たてわき)と同い年である。
江戸で苦学し、さらに箱館から長崎まで周遊して、医学、蘭学、英学を学び、砲術、航海術、機関学まで修めた。幕府の海軍操練所に入学したり、日本沿海の測量にも従事したり、幕府の外国奉行に同行してロシアの脅威にさらされていた対馬にも足を延ばしたりしている。若くして博覧強記の英才だった。
元治元(1864)年、前島は対馬巡視の帰途、長崎に滞在した。そして唐通詞(からつうじ)で英学にも通じた何(が)礼之(のりゆき)の英学塾で学び、その塾長となる。何の紹介で、オランダ系アメリカ人のフルベッキにも英語を習った。
その前島がなぜ薩摩藩に招かれたのか。その「自叙伝」によれば、同門の薩州藩士鮫島誠透から新たに創設した開成学校(開成所)に英語の教授が不足しているので、ぜひ来てほしいと誘われたという。
何の英学塾には薩摩藩からも数十人が入門していた。前田正名、岸良兼養、高橋新吉などがおり、坂本龍馬が組織した亀山社中(のち海援隊)のメンバーである白峰(しらみね)駿馬(しゅんめ)、陸奥宗光(のち外務大臣)も薩摩藩士として学んでいた(大久保利謙「幕末英学史上における何礼之」)。そのなかに、鮫島武之助という薩摩藩士も含まれているが、これが前島を誘った鮫島だろうか。
鮫島の熱心な誘いに対して、前島は「自分は学究を終生の目的とはしていない。それに英学はまだ未熟である」として断った。それでも、鮫島が再三勧誘したので、前島も一両年だけという約束で引き受けた。
こうして、前島は開成所に勤務するが、生徒の数が多くて、とても1人では教えきれず、長崎での教え子だった林清康(のち海軍中将安保(あぼ)清康)と橘恭平を呼んで助手にした。
ところで、開成所のことはあまり知られていない。元治元(1864)年6月、薩摩藩の改革派である小松らが中心となって創設した、科学や軍事のエリートを育成する機関。城下の琉球館の海岸寄り(現・鹿児島市小川町)にあった。
その設置達書によれば、陸海軍の学科として、砲術、操練、兵法、築城。その他の学科として天文、地理、数学、測量、航海、器械、造船、物理、分析、医学があった。
これらの学科を学ぶためには外国語の習得が必須で、基礎的なオランダ語と英語を教えることになっていた。前島はその教授として招聘(しょうへい)されたのである。
開成所の生徒数は7、80人で、そのほとんどが藩校造士館の秀才たちだった。彼らは藩から給料を支給されて勉学に励んだというから、藩の期待を一身に背負っていたのである(犬塚孝明「薩摩藩英国留学生」)。そのなかで、とくに成績優秀な者が英国留学生に選抜されることになる。
慶応元(1865)年12月、前島は小松らの慰留を振り切って江戸に帰った。前島は親幕的で、薩摩藩の反幕傾向に違和感を覚えたらしい。
(歴史作家・桐野作人)
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