
■ 野村忍介との因縁話も
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| 野村忍介が立てこもろうとした蒲生城跡=蒲生町 |
歴史学では「イフ」は禁物で、「たら」「れば」を語るのは戒められている。そうはいっても、一般の歴史ファンなら、「あのとき、こうしておれば…」と悔しがるのは人情というもの。
西南戦争においても、それはあてはまる。西郷軍から見れば、惜しまれるいくつかの逸機や齟齬(そご)があった。そのひとつが桐野利秋(中村半次郎)と野村忍介(おしすけ)(1846−88年)の不仲ではないだろうか。
桐野は西郷軍の事実上の総司令官であり、野村は一部隊長にすぎない。陸軍の階級でも、桐野が当時、数人しかいなかった陸軍少将だったのに対して、野村は近衛大尉にすぎない。しかも、桐野のほうが10歳近く年長である。2人のやりとりをみると、野村の策が桐野に「議を言うな」と退けられている印象が強い。
2人の対立で印象的な場面が2つある。ひとつは、明治10(1877)年1月、私学校党の火薬庫襲撃の直後、野村は壮士600人で海路、若狭の小浜に上陸し、ちょうど京都に滞在していた明治天皇に西郷隆盛の召命を働きかけるべきだと提案した。しかし、桐野に「権策(ごんさく)」(小手先の策略)だと退けられている(「西南記伝」下2)。
また挙兵の際の作戦会議で、野村は「三道分進策」を主張したという(「新編西南戦史」)。これも、長崎や豊前を経由して九州の外の同志と合流する作戦だった。だが、桐野に退けられて、熊本進軍と決した。
野村は、前年秋に山陰や関西の政情を視察して、士族を中心として明治政府への反発が大きいことを見てとり、それとの合流が勝利につながると考えた。
一方、桐野は熊本鎮台司令長官の経歴があり、熊本鎮台の実力のほどを知り抜いているという自負があった。その経験から、あえて野村の奇策を用いる必要はないと考えたのではないだろうか。
2つめは可愛岳(えのだけ)を突破したのち、蒲生でのいさかいである。負傷していた野村は西郷から蒲生城の守備を命じられた。しかし、蒲生には兵もおらず武器弾薬もなかったため、野村は西郷たちを追う。すると、桐野から「君は敵を懼(おそ)れるのか」と罵倒(ばとう)されたため、野村は憤然とする。
西南戦争といえば、田原坂の戦いが有名だが、実際のところ、西郷軍は熊本よりも宮崎での駐留のほうが長い(宮崎の人々には迷惑だったろう)。それはひとえに、野村率いる奇兵隊が大分や宮崎で縦横に奮戦して拠点を維持していたことが大きい。すでに政府軍に熊本で敗れたばかりか、鹿児島を占拠されて行き場を失っていた西郷軍主力の窮地を救ったのは、野村だといっても過言ではなかった。
その野村の卓抜な戦術能力を桐野が十分に使いこなせなかったことは、まさに「たら」「れば」の痛恨事だった。
最後、野村も城山にこもるが、西郷や桐野が討死し自刃したなかで、あえて降伏する道を選んだ。桐野への反発が一因だったかもしれない。
桐野と野村の不仲は歴史学の対象というより、小説のテーマかもしれない。近年公表された「野村忍介自叙伝写本」によれば、野村の叔父は新納立夫(たつお)(嘉藤次〔かとうじ〕)である。新納は大久保利通の姉婿。桐野は野村に大久保の影を見たのかと思いたくもなるほどだが、真相はよくわからない。
(歴史作家・桐野作人)
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