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'07/12/01 本紙掲載 
     
 

中村半次郎から桐野利秋へ(4)

■ 龍馬暗殺の究明に奔走

霊山墓地にある坂本龍馬、中岡慎太郎の墓=京都市東山区

 慶応3(1867)年11月15日、洛中三条河原町の醤油(しょうゆ)商近江屋2階で、坂本龍馬と中岡慎太郎が刺客によって暗殺された。有名な近江屋事件である。
 刺客は幕府配下の見廻組(みまわりぐみ)だというのが定説だったが、近年、薩摩藩黒幕説が唱えられ、なかには中村半次郎(桐野利秋)が実行犯だったのではないかという説さえある。
 結論からいえば、薩摩藩黒幕説は的はずれである。この事件の背景には、あくまで大政奉還に反対して幕権維持を図りたい幕府内の保守的な家門大名や譜代門閥層が存在し、大政奉還を根回しした土佐藩やそれを支持した薩摩藩に敵意を燃やしていた。そのなかで、脱藩士のため土佐藩邸に入れず、防備が手薄な民家に旅宿していた龍馬がターゲットにされ、中岡も巻き添えになったとみるべきだ。
 中村が実行犯に擬せられているのは、前回紹介した、中村による赤松小三郎暗殺も一因だろう。しかし、中村は暗殺を日記に堂々と具体的に書くような人物である。近江屋事件の実行犯なら、同様に日記に書いてよいはずだが、書かれていないのである。
さつま人国誌  中村の日記「京在日記」に龍馬の名前は3回出てくる。1回目は近江屋事件の5日前の11月10日で、散歩の途中で龍馬に会っている。2回目が同月17日で、近江屋事件を記している。
 「坂元(坂本)龍馬、一昨晩何者とも相分からず、無体に踏み込み、尤も坂元初め、家来ほかに石川清之介(中岡の変名)手負い、家来と坂元は即死、石川は未だ存命の由、併しながら、右の仕業壬生(みぶ)浪士と見込み入り候事」
 中村は実行犯が「壬生浪士」=新選組だと推定している。自分が実行犯ならば、日記で別人・別団体に嫌疑をなすりつけるほど、中村は厚顔無恥ではないだろう。
 諸史料を総合すれば、近江屋事件は午後8時から同30分の間に起きたという。中村は当日の日記に「夜五ツ前帰邸」と書いており、午後8時前に藩邸に帰宅している。だから、実行は到底不可能で、アリバイが成立する。
 3回目の記述は同月18日で、中村は龍馬と中岡の墓参をしている。その帰路、中村は高松太郎(龍馬のおい、のち坂本直)や坂本清次郎(旧姓鎌田、坂本家の養子)と同行している。龍馬の親戚(しんせき)である2人と親しくしているくらいだから、龍馬とも決して疎遠な関係ではなかったと思われる。
 葬儀翌日の19日から事態が急展開する。この日から翌20日にかけて、新選組分派である高台寺党の三樹(みき)三郎、加納道之助、冨山弥兵衛ら6人が薩摩藩邸に逃げ込んできた。彼らは新選組に首領の伊東甲子太郎を暗殺され、仲間3人も殺害されたのである。中村は大久保利通の指示で彼らの身柄を伏見の薩摩藩邸に移した。
 彼らは中村に龍馬暗殺の犯人が新選組らしいと漏らした。21日、中村の報告を受けた大久保が土佐藩邸に彼らの処遇をどのようにすべきか問い合わせた。土佐藩側は目付の毛利恭助と谷守部(もりべ、のち干城=たてき)を尋問のために派遣してきたので、中村は2人を伏見に同道した。
 尋問の末、新選組の原田左之助が実行犯の1人だという結論に達した。結果として、新選組犯人説は土佐、薩摩両藩の見込み違いになったが、両藩が共同して真相究明を行ったことは間違いない。中村もまた、龍馬と中岡の無念を晴らそうとして奔走したのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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