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'07/11/24 本紙掲載 
     
 

中村半次郎から桐野利秋へ(3)

■ 「人斬り」異称の虚と実

金戒光明寺にある赤松小三郎の墓=京都市左京区

 幕末には、何人かの「人斬(き)り」がいたことは知られている。たとえば、以前紹介した田中新兵衛(薩摩藩士)のほか、岡田以蔵(土佐藩士)、河上彦斎(げんさい)(熊本藩士)がとくに著名である。
 「人斬り」という言葉がいつから使われたのかよく知らないが、幕末期に一般的に使われていたとはとても思えない。
 中村半次郎(桐野利秋)も「人斬り半次郎」と呼ばれることがある。じつは、幕末期に中村が人を斬ったことが明らかなのは史料上、わずか1例しかない。
 そのほか、暗殺した可能性のある事例もひとつある。慶応元(1865)年はじめ、京都留守居役の内田仲之助が西郷隆盛らにあてた書簡のなかに「中村半次郎・江夏何某・森・松田・福永等の探索人暗殺の企ての一条等」云々(うんぬん)と書かれている一節がそれである。
 当事者たちしかわからない書き方になっているので判読が難しいが、薩摩藩に潜入していたと思われる川畑某という者が(幕府側へか)脱走したために、水戸藩の事情(親薩摩派と思われる一派の存在のことか)が露見してしまうことが暗殺計画の理由だとしている。もっとも、内田は中村らの行動に「愚案」として批判的である。
 どうも中村以下5人が川畑某を暗殺しようとしているように読めるが、結末がどうなったかよくわからない。ともあれ、このころ、中村が在京薩摩藩の内部規律維持を担う監察的な役割をしていたのではないかと思われる。しかも、実力による強権発動も辞さなかったようである。
 そして、中村が実際に行ったのが洋式軍学者の赤松小三郎(信州上田藩士)の暗殺である。これは中村の日記「京在日記」に書かれているので間違いない。
さつま人国誌 赤松は著名な軍学者で、京都で洋式兵学塾を開き、薩摩藩士を含む諸藩の有志が学んでいた。慶応3(1867)年9月3日、赤松は藩命により帰国しようとしていた。
 中村は田代五郎左衛門とともに赤松を尾行し、五条東洞院(ひがしのとういん)魚棚上ルでこれを斬る。中村が抜刀したとき、赤松は懐のピストルを取り出そうとしたが、中村の剣が一瞬早く左肩から右腹へ斬り下げていた。
 中村は日記で、赤松を「幕逆賊」としている。その理由は肥後、大垣、会津などの佐幕藩の藩士や新選組隊士が弟子入りしていたばかりか、赤松が将軍慶喜にも拝謁(はいえつ)していたことを挙げている。薩摩藩が討幕に踏み切ろうとしていた時期でもあり、中村は赤松を幕府側のスパイだと思い込んだのだろうか。
 赤松暗殺後、中村は斬奸(ざんかん)状を市中に張り出しているが、それには「西洋を旨とし、皇国の御趣意を失ひ、かえって下を動揺せしめ不届きの至り」とある。攘夷(じょうい)の色合いはあるものの、暗殺の理由としては漠然としすぎている。
 赤松は当代一流の軍学者として名高く、諸藩から引っ張りだこだった。薩摩藩もその招聘(しょうへい)につとめ、イギリスの最新の洋式軍学書を翻訳させて「重訂英国歩兵練法」(薩摩版)として刊行しているほどである。
 赤松は第二次長州征討に勝算がないことを幕府に建白したり、越前藩の松平春嶽にあてた建白書では「天朝の権を増」すことを主張しているなど、決して佐幕一辺倒ではない。
 中村が何をつかんでいたか不明だが、史料をみるかぎり、赤松を暗殺しなければならない理由はないようにも思える。赤松の絶筆となった郷里の兄への書簡によると、赤松は江戸の幕府からの招聘を病気を理由に断って、在京を希望していたが、そのことで会津藩から嫌疑を受け、薩摩藩は引き留めようとしていた。赤松が幕府へ出仕したら、薩摩藩への打撃になるとの判断があったのか。

(歴史作家・桐野作人) 

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