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'07/11/17 本紙掲載 
     
 

中村半次郎から桐野利秋へ(2)

■ 神出鬼没の諜報活動も

桐野利秋生家跡=鹿児島市吉野町

 幕末期における中村半次郎(桐野利秋)の動静は不明な点が多い。それはおそらく、中村がひそかに情報活動に従事していたことと関わっている。
 もっとも、誰かの密命を帯びていたわけでもなく、自発的な行動が多いようだ。本来なら、藩の統制から逸脱する行動のはずだが、なぜか中村に限っては放任されている節がある。
 たとえば、元治元(1864)年6月14日、新選組が長州・土佐系の尊王攘夷(じょうい)派を弾圧した池田屋事件の直後で、長州藩の報復が予想される緊迫した情勢のなか、在京の西郷隆盛が鹿児島の大久保利通に次のような書簡を出している。
 「中村半次郎という者が追々暴客(過激な尊王攘夷派)の仲間にも入り込み、長州屋敷内にも心おきなく出入りしているので、長州方の事情が詳しくわかりました。(中略)長州の(京都への)襲来について、(中村が)長州の国許(くにもと)まで踏み込みたいというので、大夫(たゆう)(小松帯刀(たてわき))へ申し上げました。(中村が)本当の暴客になってしまうかもしれませんが、また帰ってくれば、詳しく事情がわかると考えましたので、そのようにお含み置き下さい。(中村を)いずれ脱藩の姿で長州へ潜入させる手段をとります」。
さつま人国誌 中村が長州系の尊攘激派と交流しながら、ひそかに諜報(ちょうほう)活動をしていることがわかる。そして、西郷も中村の異能を買って、家老の小松帯刀と相談のうえ、中村を長州に潜入させようとしている。中村が真正の尊攘激派になってもしかたがないと、西郷が吐露しているのが面白い。
 この年11月、小松が大久保にあてた書簡も面白い。小松は中村が「兵庫入塾」したいと願い出てきたと書いている。これは勝海舟が創設した神戸海軍操練所のことで、蒸気船の運転術などを学ぶところだった。坂本龍馬もここで学んでいた。
 小松は中村の嘆願には消極的ながら、「国許に帰るよう命じてもどうせ聞かないだろうから、この際、兵庫でも江戸でも行かせれば、探索のためになるだろう」とも述べている。
 またこの年12月、中村は忽然(こつぜん)と美濃山中の金原(きんばら)(現・岐阜県本巣市)に現れた。筑波山で挙兵した水戸の天狗(てんぐ)党の一団が中山道の沿道諸藩兵と交戦しながら上洛しようとしていた。
 「会津藩庁記録」六に「薩州中村半十郎(半次郎)と申す者、彼(か)の濃州金原辺に賊(天狗党)の居り候頃、武田と藤田小四郎に面会致し談判候よし」とある。
 中村は天狗党の首領である武田耕雲斎と藤田小四郎に面会しているのだ。中村は2人から、武装行軍の真意が攘夷を断行しようとしない幕府の因循を糾弾するためだと聞き出している。
 中村が天狗党と接触したのは西郷の密命だったといわれるが、そうではあるまい。西郷はそのころ、豊前小倉にいて、第1次長州征討の処理に追われており、とても密命を下せる状況にはなかったからである。
 すでに天狗党の命運が定まっていることを知っていた中村は同じ志を抱く者として、やむにやまれず会いに行き、その志だけでも広く伝えようとしたのではないか。そうだとすれば、中村は薩摩藩の枠を超えている。
 土佐藩士の山本頼蔵はその日記で、中村を「随分正義の赴き也」とし、同じく土方(ひじかた)久元も日記に「真に正論家、討幕の儀を唱える事最烈(さいれつ)なり」と書いている。山本も土方も親長州の尊攘激派である。中村はその2人に高く評価されているのだから、その思想や立場も想像がつく。
 中村は当時、師の西郷からも独立した異端的な存在だったとみるべきだろう。

(歴史作家・桐野作人) 

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