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'07/11/03 本紙掲載 
     
 

薩摩藩の畿内菩提所・即宗院(下)

■ 有馬新七 父そばに眠れず

即宗院にある有馬正直の墓=京都市東山区

 東福寺塔頭(たっちゅう)・即宗院(そくしゅういん)の墓所には、有馬新七(1825−62年)の父・有馬四郎兵衛正直(1785−1847年)も葬られている。
 正直ははじめ坂木姓を名乗り、伊集院の郷士だったが、鹿児島城下・上加治屋町の有馬家を相続して、城下士(御小姓与〔おこしょうぐみ〕)となった。若いころから藩校の造士館で勉学に励み、その学問を教頭の山本正誼(まさよし)(「島津国史」の編さんで知られる)に激賞されたほどである。
 天保2(1831)年、正直は御広敷番(おひろしきばん)(奥向き御用の役人)となる。藩主島津斉興(なりおき)の養女郁君(いくぎみ)(1807−50年、前藩主斉宣〔なりのぶ〕の娘)が摂関家の近衛忠熈(ただひろ)(のち関白)に嫁ぐとき、その付き人を命じられて上京した。
 正直の京都詰めは10数年の長きにわたり、弘化4(1847)年4月に京都で他界した。享年63歳。
 正直の在京中の天保14(1843)年、19歳の新七は江戸遊学を許され、京都に立ち寄り、父のもとに滞在している。江戸では崎門(きもん)学派(儒学者山崎闇斎〔あんさい〕の学統)の山口菅山(かんざん)(小浜藩士)に学び、尊王論にめざめる。同門には梅田源次郎(のち雲浜〔うんぴん〕)がいて、深い交流を結んだ。
さつま人国誌 安政の大獄が始まり、風雲急を告げる安政5(1858)年9月、新七は江戸から京都へ上る。入京した9月7日、新七は西郷吉之助(隆盛)、伊地知正治、有村俊斎との再会を喜んだのもつかの間、翌日に学友の梅田雲浜が幕吏に捕縛された。
 新七の「都日記」によれば、8日、新七は宿所を訪れた月照にも会っている。月照の周辺にも幕吏の手が伸びていた。
 そんな緊迫した状況で、新七はこの日、有村俊斎とともに在りし日、父と過ごした郁君の御殿を訪ねている。「都日記」によれば、その場所は「聖護院の鳥居の辺を過ぎて、この辺にある桜木町」となっている。
 現在地はよくわからないが、京都市左京区の聖護院の北、京都大学の南にあたる一帯が近衛町である。この近辺か。
 すでに父も郁君も他界していて、御殿のみがぽつねんと残っていた。新七は日記に「在坐(いま)せし当時(そのかみ)の事など思ひ出(いづ)るにも、阿那耶(あなや)と感(かまけ)て涙せきあへず」と書き、父と過ごした日々を思い起こして涙が止まらなかった。そして、その足で即宗院に参詣、上京したことを父の墓前に報告し、香華(こうげ)を手向けた。
 その後、新七は西郷と有村が月照を伴って離京するのを見送ると、自身も水戸藩に下った「戊午(ぼご)の密勅」の写しを土佐、越前、宇和島の3藩主に伝達するため、江戸へ下る。
 再び上京したのは11月1日だった。新七は緊迫した国事のなかに身を置いていたが、同月25日、また即宗院を訪れて、父の墓に詣でている。新七の厚い孝心が感じられる。
 それから4年後、文久2(1862)年4月、島津久光の率兵上京に合わせて、新七はひそかに挙兵計画を立て、伏見の寺田屋に同志30余人と集結していたところ、久光が派遣した鎮撫(ちんぶ)方と斬(き)り合いとなり、鎮撫方の道島五郎兵衛とともに串(くし)刺しになって壮烈な死を遂げる。そのとき、道島と斬り合って刀が折れた新七は道島の体を抑えつけ、同志の橋口吉之丞に「オイごと刺せ」と叫んだと伝えられる。
 しかし、新七をはじめ寺田屋で死んだり自害した9人の遺骸(いがい)は上意に背いた反逆者とされ、即宗院には葬られず、伏見・大黒寺に密葬された。父のそばに眠れなかったことは、孝心厚い新七にとって痛恨事ではなかったか。皮肉にも、父の墓の隣には一緒に闘死した道島の墓がある。

(歴史作家・桐野作人) 

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