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'07/10/20 本紙掲載 
     
 

薩摩藩の畿内菩提所・即宗院(上)

■ 西郷隆盛と月照が密会

戊辰戦争の薩摩藩戦死者の名を刻む「東征戦亡の碑」=京都市東山区

 京都東山にある東福寺の塔頭(たっちゅう)・即宗院(そくしゅういん)を初めて訪れたのは2005年の暮れだった。
 幕末の薩摩藩士・中井弘(ひろむ)(のち滋賀県、京都府知事)の墓所がここにあり、その子孫の方にお願いして同行させてもらったのである。
 即宗院は室町時代初めの1387(元中4、嘉慶元)年、大隅国守護だった島津氏久(1328−87年)の菩提(ぼだい)を弔うために創建された。寺名は氏久の法名「齢岳玄久即宗院殿」に由来する。
 開山は剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう)(1318−88年)である。玄柔は京都五山のひとつ、東福寺の第54世住持。志布志にある大慈寺の2世住職でもあった。
 戦国時代に一度焼失したが、1613(慶長18)年に島津家久によって再建された。薩摩藩から70石を給されていたという。
さつま人国誌 同寺の庭園は、鎌倉時代初めの関白・九条兼実の山荘「月輪(つきのわ)殿(どの)」の跡地だという。国宝「法然上人絵伝」にも描かれた池や滝跡が残っている。
 江戸時代になると、即宗院は薩摩藩の畿内菩提所とされ、京都藩邸や大坂蔵屋敷での死没者を埋葬した。杉井哲朗住職に墓所を案内していただいたが、コケむした墓石に刻まれた年号を見ると、江戸中期の元禄年間からあり、幕末のころが一番多い。
 そのなかには、先に述べた中井弘のほか、「人斬(き)り」と呼ばれた田中新兵衛、生麦事件で英国人を斬った奈良原喜左衛門、寺田屋事件で有馬新七とともに串(くし)刺しにされた道島五郎兵衛などの墓がある。
 墓所の奥に雑木林がある。住職の案内で小道を登ると急に視界が開けて、寺院にはそぐわない鳥居が見えてきた。その奥には6基の石碑が並んでいる。
 「東征戦亡の碑」だった。戊辰戦争で戦死した薩摩藩士524霊が祀(まつ)られている。供養碑の揮毫(きごう)をしたのは西郷隆盛。
 西郷にとって、即宗院は感慨深い場所だった。勤王僧月照との密会の場所だといわれる。1858(安政5)年3月、西郷は島津斉彬の密命を受け、天璋院(てんしょういん)篤姫が養親・左大臣近衛忠熈(ただひろ)にあてた密書をもって上京し、将軍継嗣を一橋慶喜とする内勅降下の政治工作を行った。西郷が頼りとしたのは、島津家の親せきである近衛家だった。
 一方、清水寺成就院(きよみずでらじょうじゅいん)の住職だった月照も近衛家の祈祷(きとう)僧で、攘夷(じょうい)祈願を担っていた。2人の縁は近衛家を介してのものだろう。
 しかし、政局は急展開した。、大老となった井伊直弼が勅許を待たずして日米条約を調印し、水戸斉昭、松平慶永らの一橋派諸侯に謹慎・隠居を命じたのである。それを知った斉彬は鹿児島から率兵上京を企てたが、7月16日に急死する。
 西郷は京都で斉彬の訃報(ふほう)に接して愕然(がくぜん)とする。このうえは帰国して殉死しようと思いつめた。そのとき、月照は生き抜くことが斉彬の遺志を継ぐことだと諭したために、西郷も翻心したと伝えられる。
 そんな西郷と月照の激しい交流があった場所が即宗院の境内にあった茶室・採薪亭(さいしんてい)ではないかといわれている。残念ながら、この茶室は現存していない。
 西郷が供養碑の揮毫をしたのは、それから10年ほどのちの1869(明治2)年だった。そのとき、西郷の脳裏には月照の面影が去来したのではないだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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