
■ 歴史の敗者の心情投影
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| 福昌寺跡にある持明夫人の墓碑銘=鹿児島市池之上町 |
鹿児島市にある西郷隆盛銅像の裏手、市立美術館の敷地の一画に、ジメサアと呼ばれる変わった石像がある。何が変わっているかといえば、派手なお化粧をされているのだ。
新暦と旧暦の違いはあれど、昨5日はジメサアの378回目の祥月命日で、年に一度の恒例のお色直しが行われた。
ジメサアとは、「持明(じみょう)様」の鹿児島なまりである。戦国時代の太守・島津義久の三女亀寿(かめじゅ)(1571−1630年)のこと。亀寿は江戸時代の藩祖・島津家久(義弘二男)の夫人となった。法名から持明夫人と呼ばれた。
ジメサアの石像はなぜお化粧されるのか。伝承によれば、亀寿は容貌(ようぼう)に優れず、美しくなりたいと願っていたという。亀寿の死後、いつしか庶民の同情が集まって、ジメサアの石像に化粧することで、その霊を慰めるという風習が定着したらしい。
しかし、亀寿の器量については、正反対の逸話も残っている。義久が川内・泰平寺(現・薩摩川内市)で豊臣秀吉に降伏したとき、亀寿を人質に差し出した。「薩藩旧伝集」補遺には次のように書かれている。
「秀吉公は(亀寿を)偽物かとお疑いになって、ご容貌が美しいので、なお疑わしく思われ、御前にあった菓子の入った台を投げ出されたところ、(亀寿は)少しも驚かれず、ただ、一目ご覧になっただけだった。秀吉公はその落ち着きぶりを見て、『龍伯(義久)の実子に間違いない』と仰せになった」
もし、このとおりなら、ジメサアの化粧直しは的はずれということになる。
ともあれ、ジメサアには一種の悲哀がまとわりついている。それはなぜなのか。
太守義久には男子がなく3人の女子だけだった。亀寿はいわば嫡女で、その婿が義久の後継者と目された。最初、亀寿はいとこの久保(ひさやす)(義弘長男)と縁組するが、ほどなく死別する。そのため、秀吉のお声掛かりで、今度は久保の弟・家久(当時、忠恒)と再婚した。家久にすれば、もと兄嫁のうえに5歳も年上女房である。複雑な心境だったのではあるまいか。
そのせいか、2人の間には子どもができなかった。そのため、太守義久が他界した慶長16(1611)年前後から家督問題が再燃する。
家督が義弘−家久系統に移ることに不満をもつ義久派は、亀寿の次姉(じし)と垂水島津家の彰久(てるひさ)の子・忠仍(ただなお)(亀寿の甥[おい])を亀寿の養子という形で新たな後継者にして、家久をはずそうとしたらしい。
一方、家中で劣勢の家久は徳川幕府に支援を求めた。2代将軍秀忠の二男国松(のち駿河大納言忠長)を養子にほしいと願い出たのである。幕府が断るのを承知のうえの裏業で、その代わりに側室を置くお墨付きを得て、その間に生まれた男子でも幕府に世子(せいし)として認めてもらうためだった。家久は幕府の権力を借りて義久の権威を凌駕(りょうが)しようとしたのである。
義久没後、家久は初めて側室をもち、虎寿丸(とらじゅまる)(のち2代藩主光久)が生まれた。家督をめぐる主導権争いは家久の勝利で一応決着した。それでも、亀寿は虎寿丸を養子として嫡母となり、なお健在を示した。
亀寿は父義久の死後、その隠居城だった国分城で残りの生涯を過ごした。亀寿の死は残存する義久派を悲しませたのではないか。ジメサアに集まる同情の幾分かには、そうした歴史の敗者の心情が投影されているかもしれない。
(歴史作家・桐野作人)
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