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'07/09/29 本紙掲載 
     
 

村田岩熊と民謡「田原坂」異説

■ 左手には手綱か生首か

田原坂に立つ美少年像=熊本県植木町

 今年は西南戦争130年の節目である。鹿児島では数多くの関連行事が開かれ、南日本新聞でも連載「我に義あり」がつづいている。同連載でも村田岩熊(1859−77年)について触れていたが、ここでは岩熊と肥後民謡「田原坂」の意外なエピソードを紹介したい。
 薩軍首脳の一人・村田新八の長男が岩熊である。岩熊は鹿児島城下高見馬場に生まれ、明治5(1872)年2月、北海道の開拓使海外派遣留学生の一員として鉱山学を学ぶためにアメリカに留学した(「開拓使文書」)。西郷隆盛の一子・菊次郎も一緒だった。岩熊は「天資俊敏にして才幹あり」(「西南記伝」)といわれるほどの逸材だった。在米3年ののち、開拓使の命令で同8年に帰国。西南戦争では4番大隊7番小隊に属して従軍、戦死した。享年19歳。
 田原坂で激戦が展開されていた明治10(1877)年3月14日、東京日日新聞の従軍記者・福地源一郎は薩軍兵士の手帳を入手する。田原坂にあった薩軍の堡塁(ほうるい)を攻略した政府軍兵士から得たものではないだろうか。福地は「田原坂激戦詳報」(3月24日掲載)で次のように書いた。
さつま人国誌 「西洋の手帳にて邦文と英文と取り雑(ま)ぜにて認(したた)めたり。其姓名は知らねども、十八年十ケ月の少年書生にて、去年東京に来り海軍生徒の試験を経たるに、国許(くにもと)容易ならぬ形勢なりと聞き、昨十二月十七日に鹿児島に帰り、西郷に附属して出張せし事を記せり。敵ながらも可程(かほど)に英学も相応に出来る少年が賊となりて死せし事可憐」
 英語と日本語交じりで書かれた手帳だった。18年10カ月という年齢は岩熊に近い。そのためか、手帳の持ち主は岩熊ではないかともいわれている(「鹿児島百年」中)。
 果たしてそうなのか、疑問がないわけではない。まず岩熊の戦死した日にちは「西南記伝」では4月1日。福地が手帳を入手した日とは食い違っている。また戦死地も田原坂後方の植木だとされている。3月14日の戦闘は植木まで波及していない。
 これらから考えられるとすれば、手帳は岩熊のものでない可能性が高い。あるいは、3月14日に岩熊は手帳を紛失しただけで、まだ戦死していなかったのかもしれない。
 それはともあれ、民謡「田原坂」に出てくる「馬上豊かな美少年」のモデルはいつしか岩熊だといわれるようになった。ところが、じつはほかにも候補者がいるらしい。人吉隊の三宅伝八郎(20歳)、熊本協同隊の高田露(24歳)、熊本隊の高橋長次(15歳)などである。
 この謡は日露戦争のころ、九州日日新聞の記者だった入江某氏が作詞し、熊本の芸妓(げいぎ)・留吉が曲を付けたといわれている。とくに歌詞にまつわる逸話が面白い。「右手(めて)に血刀、左手(ゆんで)に手綱」の一節。最初の詞は「右手に血刀、左手に生首」だったという。「生首」ではいかにも生々しいので、いつしか「手綱」に変えて謡われるようになった。
 この謡は本来、田原坂の血なまぐさい戦闘をしのばせるものだった。それが美少年の兵士に仮託されて、一層哀切を帯びて歌い継がれたのだろう。

(歴史作家・桐野作人) 

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