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'07/09/22 本紙掲載 
     
 

知られざる薩州島津家(下)

■ 独立図り、忠辰で断絶

忠辰の供養塚。家来の野間口氏が400年以上守ってきたという。法名「通津宗要大居士」=出水市大野原町

 薩州島津家の7代当主は義虎嫡男の忠辰(ただとき)(1566?−93年)である。
 忠辰には謎がいくつかある。そのひとつが生年と生母のこと。生年は天文22(1553)年説と永禄9(66)年説がある。前者なら、義虎夫人・於平(おひら)(義久長女)はわずか3歳だから生母は別にいる。後者なら、於平は16歳だから生母だった可能性もある。それならば、忠辰は太守義久の直系の孫にあたる。
 「薩州氏系図」は天文22年説を採りながら於平生母説を唱える。注目すべきは、同系図に張り紙されている「島津弥市郎系図」。そこには、永禄9年12月21日誕生、文禄2(93)年8月17日、加徳島(カドクド)で卒、享年28歳と書かれている。
 「島津弥市郎」は忠辰の四弟・忠栄(ただひで)の子久基(ひさもと)のことだと思われる。忠栄から始まる家は江戸時代に薩州家准二男家として存続している。忠辰に非常に近い家の系図だから、信用できるのではないか。
 さて、忠辰が義虎から家督を継いだのは天正13(85)年である。忠辰は本宗家に恭順した父義虎から一転して、祖父実久(さねひさ)のやり方に回帰し、本宗家からの独立を企てる。忠辰は父よりも祖父の遺伝子を多量に受け継いでいたようである。
さつま人国誌 豊臣秀吉の九州侵攻のとき、忠辰はほとんど抗戦せずに降伏したので、秀吉から嘉賞されて所領を安堵(あんど)された。それは出水郡から川内川以北の高城(たき)郡(現・薩摩川内市)にまたがっていた。禄高(ろくだか)は3万石余もあった。
 忠辰の独立志向は、本宗家が敗北してから一層高じた。文禄元(92)年、朝鮮出兵が始まる。忠辰は本宗家から命じられた国役や肥前名護屋(なごや)城の普請をサボタージュした。そればかりか、秀吉にじかの奉公を願い出て、本宗家とは陣立を別にして出陣したいと要求した。この前後、忠辰は泉又太郎と改名した。泉は出水であり、島津家中からの決別を意味していた。
 忠辰がここまで強気だったのは、薩州島津家が秀吉の直臣同然に処遇される御朱印衆(ごしゅいんしゅう)だったからだと思われる。その秀吉朱印状は現存しないものの、義久が石田三成、細川幽斎にあてた書状で、忠辰領を「御朱印之地」と書いていることがその傍証となるだろう。
 忠辰は朝鮮出兵を本宗家から独立する好機と見たのである。しかし、秀吉は出征する諸大名の陣立をすでに定め、忠辰を島津義弘の与力として出陣させるつもりだったから、「薩摩国は義弘に与えたのだから、その命令に従え」と回答して、忠辰の要求を拒絶した。
 若い忠辰の性急なやり方が百戦錬磨の天下人に通用するはずもなかった。望みがついえた忠辰は屈折した。朝鮮にも大幅に遅れて出征し、ようやく釜山浦(プサンポ)に着いたが、病と称して上陸しなかった。激怒した秀吉は忠辰を軍令違反の廉(かど)で改易し、小西行長に預けた。忠辰領は秀吉の蔵入地(くらいりち)となった。忠辰はほどなく釜山近くの加徳島で没した。病死とも自害ともいう。
 忠辰の改易はその家族にも累が及んだ。母於平と弟の忠清、忠富、忠豊も行長に預けられ、肥後宇土に幽閉された。行長が関ケ原合戦で敗死すると、今度は加藤清正に預けられて熊本に移った。太守義久はその間に何とか長女於平を引き取ることができたが、忠辰の弟たちは一時四散した。
 薩州島津家は忠辰の代で断絶したが、じつはその血統が本宗家に受け継がれた。忠辰の三弟忠清の一女(心応(しんおう)夫人)が藩祖家久の側室となり、2代藩主光久を生んだのである。

(歴史作家・桐野作人) 

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