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■ 一時守護となった実久
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| 薩州島津家の墓所=出水市西ノ口 |
戦国島津氏の人物事典で「本藩人物誌」というのがある(「鹿児島県史料集」13)。江戸時代後期に著されたもの。
その末尾に「国賊伝」という変わった巻が収録されている。「国賊」とは、島津本宗家への反逆者、逆臣を指すが、あくまで日新斎(じっしんさい)忠良、貴久親子以降の島津本宗家から見た価値基準であることに留意する必要がある。
その「国賊」の筆頭にあげられているのが島津実久(さねひさ)(?−1553年)である。実久は北薩出水郡を領する島津家の分家・薩州島津家の5代目当主。代々薩摩守(さつまのかみ)の官途を名乗ったので、薩州島津家と呼ばれた。
実久の代、薩州島津家は勢力が強大で、北薩のほか、南薩の加世田、川辺、鹿籠(かご)(現・枕崎)なども領していた。しかも、実久の姉が島津本宗家14代勝久の正室だったから、勝久とは義兄弟になる。
本宗家も勝久の代になると、分家や国人が台頭し衰退する一方だった。そんな乱世に乗じて、実久は本宗家の家督を獲得しようと野望を燃やした。同様に島津家の分家・相州(そうしゅう)島津家の日新斎、貴久親子も勝久から家督禅譲の機をうかがっていた。つまり、両者は最大のライバルだったのである。
大永7(1527)年4月、勝久は貴久を養子にし、いったん守護職を譲った。しかし、わずか1カ月後に勝久は「悔返(くいがえし)」(所有権の取り消し)によって、貴久から守護職を取り戻す。これには実久や実久寄りの老中(家老)の圧力があった。実久が兵を動かしたために、貴久は鹿児島を保てなくなり、わずかな供廻(ともまわり)とともに南薩の田布施に逼塞(ひっそく)した。貴久の重臣である樺山玄佐(げんさ)の日記にも「虎寿丸様(貴久)も田布施、阿多、高橋三ケ所に引き、御籠鳥(おかごのとり)の如し」と記すありさまだった。
貴久の家督相続を阻止した実久は天文4(1535)年、勝久と家臣団の不和に乗じて勝久の追放に乗り出した。鹿児島を攻めた実久に、老中衆や鹿児島衆が味方したので、孤立無援となった勝久は帖佐に出奔し、以後、鹿児島に帰ることはなかった。
ここに実久の覇権が成ったのである。一種の下克上だが、「樺山玄佐自記」には「国をもここより以後、実久存ずべきの旨御神判これあり」とあり、勝久の「御神判」(起請文[きしょうもん])によって実久への家督相続が行われたようである。
実久が一時守護職を獲得したという説を唱えたのは山口研一氏である(「戦国期島津氏の家督相続と老中制」)。山口説のポイントは、勝久から貴久へと家督相続がなされたとし、実久の存在を無視している通説を批判することにあった。
山口説は「樺山玄佐自記」で、「(実久が)守護の御振舞と見えけり」とあいまいに記していることに注目し、玄佐は貴久側ゆえに、実久の守護職をはっきり認めるわけにはいかなかったと述べる。また島津本宗家の正史「島津国史」さえも「実久鹿児島に居り、国命を執る。一に守護職の如し」とし、実久の守護職就任を暗に認めている。
実久が守護職だった期間は10年ほどつづいたのではないだろうか。その間、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)していた日新斎、貴久は前主勝久や入来院氏らとひそかに結んで反攻に転ずる。天文7(1538)年から翌8年にかけて、薩州島津家の拠点である加世田城を攻略し、さらに鹿児島郊外の紫原で実久方と決戦して、これを破った。かくして、貴久が守護職に復帰するのは同14(1545)年のことである。
実久が「国賊」の筆頭とされたゆえんは、現・島津本宗家の創業期に最大の敵だったことにあるといえよう。
(歴史作家・桐野作人)
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