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'07/09/01 本紙掲載 
     
 

銅像がない2人の英国使節

■ 藩外人ながら薩摩藩士

英国使節団19人のうち17人の像が立つ「若き薩摩の群像」=鹿児島市

 鹿児島市のJR鹿児島中央駅前にある薩摩藩英国使節団のモニュメント「若き薩摩の群像」から除外された2人の藩外出身者の像建立を求める「若き薩摩の群像を完成させる会」が8月29日、発足した。
 使節団19人が串木野の羽島港からひそかに出航したのは、慶応元(1865)年3月である。鎖国の国禁を犯しての洋行は言語に絶する苦難を伴った。彼らの多くはのちにわが国を代表する国際人へと成長していく。
 この青年たちの雄飛を記念して建立された群像から、薩摩藩士ではないという些細(ささい)な理由で2人だけが除外されたのは、この国際交流の精神に鑑(かんが)みていかがかと、かねがね残念に思っていた。それだけに、2人の追加建立の動きが出てきたことを歓迎したい。ぜひ建立を実現してほしいものである。
 ところで、除外された2人はどのような人たちだろうか。
 高見弥一はもと土佐藩の郷士で、旧名を大石団蔵という。土佐藩の参政・吉田東洋暗殺に関与して薩摩に亡命してきた。薩摩では藩の洋学養成機関である開成館で学び、蘭学専修生だった。英国に留学したのは31歳のときである。
さつま人国誌 高見については、すでに西郷南洲顕彰会顧問の山田尚二氏の論考がある。それによれば、文久3(1863)年12月、御小姓与(おこしょうぐみ)(四番組小与)として召し抱えられ、堪忍料として米4石、書籍方掛(しょせきがたかかり)と句読師助(くとうしたすけ)(切米(きりまい)20俵)を兼務するなど、薩摩藩当局の辞令がいくつか紹介されている(「鹿児島史学」29号)。
 御小姓与というのは、鹿児島城下に居住する城下士の最下級の家格。西郷隆盛や大久保利通も御小姓与だった。つまり、高見は藩外出身者ながら、留学前かられっきとした薩摩藩士だったのである。
 次に、使節団の通詞(つうじ)(通訳)をつとめた堀孝之である。堀は達之助の二男に生まれ、通称を壮十郎といった。堀家は長崎で代々オランダ通詞をつとめていた。父達之助はペリーの2度目の来航のとき、幕府の通詞をつとめたことで知られる。達之助も英語を学んでいるから、堀も英語が達者だったのだろう。
 安政6(1859)年、堀が16歳のとき、長崎に来た薩摩藩士・五代友厚(のち実業家、大阪商工会議所会頭)の知遇を得たのがきっかけで、通詞に選ばれた。
 堀家は薩摩藩と縁が深かった。元尚古集成館長の芳即正(かんばし・のりまさ)氏によれば、堀家の五代愛生は寛政9(1797)年、江戸で島津重豪(しげひで)に仕え、百科全書「成形図説」編さんにもかかわった。その功労か、一代小番(御小姓与のひとつ上の家格)となり、役職も御小納戸(おこなんど)頭取格まで昇進している(「鹿児島史話」高城書房)。
 近年、堀の3代目の子孫・堀孝彦氏が「英学と堀達之助」(雄松堂出版)を上梓(じょうし)した。そのなかに、御船(おふね)奉行五代才助(友厚)の下で御船奉行見習通弁として「堀宗十郎(壮十郎)」とあり、堀が薩摩藩の下級役職にあったことをうかがわせる。さらに薩摩藩家老・桂久武にあてた堀の書簡には「私事、今般代々御小姓与仰せ付けられ、冥加(みょうが)至極、有難き仕合(しあわ)せに存じ奉り候」という一節がある。
 堀も高見と同じ御小姓与だったのである。しかも、この書簡は英国渡航直前の慶応元年2月のものだと思われる。
 高見と堀の2人とも、薩摩藩士だったことは間違いない。この事実をもってすれば、2人が群像から除外される理由ははじめからなかったと思われるが、いかがだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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