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'07/08/25 本紙掲載 
     
 

小松帯刀と豚肉

■ 「豚一殿」の催促に困惑

東京・三田の薩摩藩邸跡から出土した豚の下あご骨(港区立港郷土資料館提供)

 来年のNHK大河ドラマ「篤姫」では、薩摩藩家老・小松帯刀(たてわき)が重要な役どころを演じるそうだ。薩摩藩の大立者ながら、あまりクローズ・アップされなかった人物なので、どのように描かれるのか興味深い。
 その小松の面白い逸話を少し紹介したい。元治元(1864)年11月、在京していた小松は鹿児島の大久保利通に書簡を送った。その追伸には小松の愚痴が書かれていた。
 「一橋公(慶喜)から豚肉を度々所望されています。拙者の持ち合わせのみ進上したところ、すでに3度までご所望で、全部差し上げたところ、またお使者をもってご相談がありましたけれど、もはや手元にないのでお断りするしかありませんでした。ですから、そのようなことがないようお取り計らい下されたく。琉球豚を余分に持っている人もいません。大名というのは、やりくり算段を考えない人で、こちらは大いに混乱しております。何分よろしくお願い申し上げます」
 一橋慶喜は当時、禁裏守衛総督として「京都の将軍」と称されるほど権勢があった。薩摩藩は禁門の変を一緒に戦ったので、慶喜との関係もまだよかったころである。この戦いで、小松も慶喜とともに禁裏御所に詰め、慶喜からの信任が厚かった。だから、政治的な付き合い上も、小松は豚肉の在庫を切らすわけにはいかず、大久保に至急豚肉を送ってくれるよう、懇願したというわけである。
さつま人国誌  慶喜は一風変わった人で、当時にしては珍しく、牛乳や豚肉が好きだった。そのため、「豚一(ぶたいち)殿」(豚が好きな一橋殿)と陰口をたたかれたほどである。
 小松は京都屋敷にまとまった豚肉を貯蔵していた。じつは、大久保あて書簡の1カ月前、小松は国元にいる妻・お近につぎのような書簡を送っている。
 「何よりのぶた(豚)・ぎふ肉(牛肉)・玉子など給わり、別して別してかたじけなく、即(すぐ)より賞翫(しょうがん)いたし参らせ候」
 小松はお近から豚肉、牛肉、卵などを送ってもらって、自分も食べていたのだ。慶喜に提供したのも、このなかの豚肉だったのだろう。また牛肉も食べていたのには驚かされる。
 江戸時代には仏教的な殺生禁断の教えが浸透しており、日本人は一般に肉食を好まなかった。しかし、薩摩だけはその限りでなかった。江戸時代後期の農学者・佐藤信淵(のぶひろ)が著した「経済要録」には「薩侯の邸中に飼(かう)処(ところ)なる白毛豕(ぶた)は、其味殊更上品にして、食物も亦(また)法に叶へり」とあり、江戸の薩摩藩邸で豚が飼育されていたのだ。
 近年、江戸・三田の薩摩藩邸跡(現・東京都港区芝3丁目)の発掘調査が行われたところ、大量の豚の骨が出土した。出土した獣骨2000点余りのうち、豚と猪(家畜化されていたと思われる)の骨がじつに58%を占めていたという(図録「江戸動物図鑑」)。
 江戸時代の薩摩人がいかに豚肉好きだったかが察せられる。
 また小松の書簡にあるように、琉球豚も珍重されたようである。明治中期まで少し時代が下がるが、「薩摩見聞記」に「又琉球よりも絶えず塩漬の豚を送り来る。一体に薩摩にては鶏・豚の味甚だよきが、琉球の豚は更に好味なり」と書かれている。慶喜は琉球からの塩漬け豚も食べたのだろうか。
 いまの鹿児島は、わが国随一の黒豚の産地で、その品質は折り紙付きである。小松の書簡は、江戸時代の先祖から脈々と受け継がれた食文化だったことを教えてくれる。

(歴史作家・桐野作人) 

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