
■代官所の拷問に村人怒る
 |
| 犬田布一揆の記念碑=伊仙町犬田布 |
一昨年(2009年)5月、徳之島を訪れたとき、幕末に起きた「犬田布騒動」の地に立った。島の西南端の犬田布岬に行く途中の高台に記念碑があった(現・伊仙町犬田布)。
表に「犬田布騒動記念碑」と揮毫され、裏には処罰された9名の名前と年齢が刻まれている。建立年月日は1964(昭和39)年3月18日。一揆からちょうど百年目で、百年祭が挙行されたとき建立されたもの。
一揆が起きたのは文久4(元治元年、1864)年3月18日。この日、徳之島の代官を補佐する附役・寺師次郎右衛門が犬田布村に下役人を連れてやってきた。目的は犬田布村の百姓・福重(70歳)の砂糖上納分が斤量検査で見積高よりも不足していることが判明したので、取り調べるためだった。
薩摩藩は奄美諸島で生産される砂糖の専売制を維持するために、島民による密売や焼酎(泡盛)の密造には厳罰を加えていた。福重にも密売の嫌疑がかけられたのである。
福重が仮屋に呼び出されたが、老齢のため、姪婿の為盛(39歳)が代わりに出頭した。役人が詮議したが、為盛が密売を強く否定したため、厳しい拷問が行われた。為盛は割り薪の上に座らされ、膝と太腿の間に棒を入れ、太腿の上に挽臼を乗せ、さらに棒でたたいて責め立てた。そのため、為盛は血を吐いて気を失った。
この拷問は、外からのぞき見していた近在の村人たちの怒りを誘った。西目間切(現・天城町)の惣横目・琉仲為の「仲為日記」には「作人中申し合わせ、百五拾人ほど木刀を相携え立ち向かう」と書かれている(四本健光「犬田布騒動」)。
多数の村人たちは拷問現場を見て口々に「役人を打ち殺せ」と島言葉で叫んだ。そこで、危険を察知した惣横目の福世喜が先導して、寺師らを馬に乗せて島尻間切(現・伊仙町)の役所がある伊仙まで逃がした。村人たちは為盛を救出する一方、伊仙まで押し寄せた。その後、村人たちは村の入口に石塁を築き、ナタや鎌・鍬などをもって守りを固めた(右同書)。
それからは役人側も静観したため、一揆は自然に解散した。その後、摘発が行われた。23日、代官の上村笑之丞の名で触れが出され、津口横目格・義仙、義佐実、砂糖掛・義武、義福、実静の5人が小舟で逃亡したとして手配された。
25日には首謀者とみなされた9人(右記5人のほか為盛、喜美武、安寿盛、安寿珠)が逮捕され、うち6人は大島、沖永良部、与論に遠島処分となって一揆は終息した。
一揆の背景には前年の薩英戦争が陰を落としていそうである。薩摩藩は海防強化の必要に迫られ、その資金調達のため、奄美諸島の砂糖上納高を大幅に増やした形跡がある。西目間切に属する井之川地区では、この年初め、代官所から砂糖145万斤の上納を命じられた。島役人たちはとても無理だから、80万斤に減らしてくれるよう嘆願したが、許されなかったという(四本氏同右論文)。
一揆の首謀者には津口横目格と砂糖掛という末端の島役人も含まれている。本来、代官側に付く島役人さえも村人側に味方したことから、一揆の背景に藩庁による理不尽な砂糖増産計画があったことがうかがえる。
一揆ののち、井之川では砂糖生産の割当てが60万斤に減らされた。一揆の成果といえる。
なお、この「犬田布騒動」は「犬田布一揆」と呼ぶべきだろう。研究者の多くも百姓一揆だと認めながら、名称は相変わらず「騒動」のままである。そろそろ改めるべきではないだろうか。
(歴史作家・桐野作人)
- 189 - |