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'07/08/04 本紙掲載 
     
 

筆頭老中・伊集院幸侃の斬殺事件

■ 島津本宗家が権限奪還

伏見城跡に建つ伏見桃山城の模擬天守=京都市伏見区

 前回、平田三五郎が庄内合戦(庄内の乱)で討ち死にしたことを取りあげた。
 庄内合戦の発端は、慶長4(1599)年3月9日、島津忠恒(のち家久)が筆頭老中・伊集院幸侃(こうかん)を伏見屋敷で手討ちにしたことである。
 島津家当主が第一の重臣を自ら斬(き)るという前代未聞の惨劇がなぜ起こったのだろうか。
 「島津国史」は幸侃が「畔逆(はんぎゃく)(反逆)を謀る」とし、「西藩野史」も幸侃が石田三成と結んで忠恒を毒殺しようとしたとする。しかし、幸侃の謀反は考えにくい。両書とも江戸時代後期の成立で島津家側に立ったものだから、あまり信用できない。
 一方、「庄内軍記」には幸侃の権勢が次のように描かれていて、いかにもありえそうなことだと思われる。
 「伏見に屋敷を構へ、造営結構に出来、君主の居宅も及び難く、さながら国主大名の会釈にて、驕奪(きょうだつ)日頃に十倍せり」
 幸侃の伏見屋敷がまるで国持ち大名のように立派で高慢が極まっているというのだ。当時の伏見城は豊臣秀吉の居城で、城下には大名屋敷が立ち並んだ。ふつうなら、島津家の老中(家老の意)にすぎない幸侃は屋敷を持てない。なぜ持てたのか。
さつま人国誌 伊集院氏(大和守流)は島津本宗家に近い相州(そうしゅう)家の家老の家柄だった。日新斎(じっしんさい)忠良が伊作(いざく)家と合わせて相州家を相続してから、幸侃の祖父・伊集院忠朗(ただあき)は忠良、貴久、義久の3代に仕えて重きをなした。幸侃はそうした高い地位を受け継いだ。
 幸侃の地位がひときわ高くなるのは、秀吉に降伏してからである。幸侃は降伏の人質となって、いちはやく豊臣政権、とくに三成の信任を得た。また文禄4(1595)年の太閤検地では、幸侃は三成と連携しながら、島津家側の代表として立ち会い、家中の知行配当を主導した。
 その結果、島津氏の知行高は57万石弱で確定した。そのうち島津義久、義弘の蔵入地(くらいりち)がそれぞれ10万石だったが、幸侃にも庄内に8万石が与えられた。幸侃は義久、義弘に匹敵する所領を得たのである。
 幸侃は島津以久(もちひさ)(義久のいとこ)、北郷一雲(ほんごう・いちうん)(時久)とともに、秀吉からじきじきに知行に関する朱印状を与えられている。そのため、3人は「御朱印衆」とも呼ばれ、陪臣(ばいしん)(家来の家来)ながら、秀吉の直臣に準じる処遇をうけた。幸侃が伏見に屋敷を持てたのは「御朱印衆」ゆえである。
 しかし、幸侃の権勢は島津家中の反感・反発と背中合わせだった。代々の本拠である庄内を幸侃に奪われたうえに禄高(ろくだか)を減らされた北郷氏(のち都城島津家)は幸侃への恨みを募らせた。また太閤検地では、「浮地(うきち)」と呼ばれる余剰の知行高12万石余が打ち出され、家臣たちへの加増分として留保されたが、豊臣政権の命令でその配当のさじ加減を委ねられたのは幸侃である。これも家臣たちの嫉妬(しっと)を買った。
 そもそも、知行配当は大名権限の根幹である。幸侃は義久や忠恒を差し置いてその権限の相当部分を握っていた。とくに朝鮮在陣中の忠恒が自分の側近に浮地の配当を要求したが、幸侃に断られた1件は無視できない。忠恒は幸侃のために面目を失った。
 幸侃上意討ちとは、島津本宗家が本来の大名権限を幸侃から奪還しようとした実力行動だったのではないか。こんな荒っぽい事件が秀吉の死の直後に起きたのも、幸侃の後ろ盾である豊臣政権の混乱に乗じたといえそうだ。

(歴史作家・桐野作人) 

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