
■ 大久保利通と深い親交
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明治初年の大久保利通(大久保利泰氏提供) |
坂本龍馬と大久保利通の交流は知られていない。なかには、龍馬と大久保は疎遠で、会ってさえいないという人もいる。
いうまでもないが、龍馬と大久保は面識がある。土佐藩重役の寺村左膳の日記=慶応3(1867)年6月22日条=に薩土盟約が結ばれる場面がある。
薩摩藩からは小松帯刀(たてわき)、西郷隆盛、大久保の3人、土佐藩からは後藤象二郎ら4人がそれぞれ出席しているが、盟約の立会人として「浪士之巨魁(きょかい)」である龍馬と中岡慎太郎も同席している。大久保が龍馬と会っていることは、これだけでも明らかである。
さて、慶応元(1865)年5月、初めて薩摩に来た龍馬は鹿児島城下から、現在の国道3号沿いに徒歩で北上し、国境である出水の米ノ津港から船で肥後に向かった。目的は龍馬の師の一人である横井小楠(しょうなん)に会うためだった。小楠は開明的、近代的な政治思想をもつ学者で、福井藩の松平春嶽の政治顧問をしていたこともあったが、このころ、藩当局から罰せられて、熊本郊外の沼山津に閉居していた。
小楠は龍馬の来訪を歓迎した。そのときの模様が徳富蘆花(ろか)の「青山白雲」に描かれている。蘇峰(そほう)、蘆花兄弟の父・徳富一敬は小楠の門下で相婿(あいむこ)でもあった。龍馬が来たとき、一敬もちょうど居合わせていたのである。蘆花は父から聞いた話として、龍馬の様子を次のように述べている。
「坂本は白の琉球絣(かすり)の単衣(ひとえ)に鍔細(つばぼそ)の大小をさし、色の黒い大男、で至つてゆつたりと物言ふ人であつた。衣服大小皆大久保の呉れたものとか云つて居た」
蘆花の伝聞ではあるが、リアリティーのある逸話だと思う。龍馬がいかにも薩摩風の武士のいでたちだったことが期せずして描写されているからである。
褌(ふんどし)にも困って西郷に借りたという有名な逸話がある龍馬だから、鹿児島を出発するにあたって、衣服その他を大久保が調達してくれたというのはうなずける話である。
とくに「鍔細の大小」という一節が興味深い。これは薩摩独特の「薩摩拵(こしらえ)」の特徴をよく示している。薩摩拵の収集家・研究者である調所(ずしょ)一郎氏によれば、薩摩拵の特徴として、長く内反りの柄(つか)(潰[つぶ]し巻きが多い)のほか、鍔が小さいことがあげられている。これは東郷示現流や薬丸自顕流特有のトンボの構え(刀を頭の右上に高く掲げる構え)をしたとき、鍔が顔や耳にあたらないようにする工夫であり、鍔競り合いを拒絶する攻撃的な姿勢を示したものという(「薩摩拵」里文出版)。
参考までに大久保の写真を見ていただきたい。調所氏によれば、向かって左手に架けられた大刀は柄が長く潰し巻きで、突端の頭(かしら)が太く、全体に武骨な感じで、薩摩拵の特徴をよく備えているという。
大久保が龍馬に与えた鍔細の大小は薩摩拵だったと推定していいのではないか。武士の命といえる刀を贈るのは、親しい友人だからこそだろう。
一敬は「徳富一敬筆記」という別の著作でも、龍馬の大久保評を紹介している。
「龍馬曰(いわ)く、天下の事衰頽(すいたい)救ふべからず、感慨の話多し。一人薩の大久保なるもの事を共にすべし」
龍馬が大久保の識見を高く評価していたことがわかる。龍馬はこののち、水面下で薩長和解の周旋をひそかに始めていた。龍馬と大久保の親交もそのことと無縁ではない。
(歴史作家・桐野作人)
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