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'07/07/14 本紙掲載 
     
 

坂本龍馬の入薩(中)

■ 小松帯刀への厚い信頼

小松帯刀の銅像=鹿児島市山下町

 坂本龍馬と薩摩藩の関係では、西郷隆盛との交流がよく知られている。でも、龍馬が親しかったのは西郷だけではない。家老の小松帯刀(たてわき)との縁も深かったことはあまり知られていないので、その一端を紹介しよう。
 元治元(1864)年11月、幕府軍艦奉行・勝安芳(やすよし)(のち海舟)の罷免により、神戸にあった幕府の海軍操練所が閉鎖され、龍馬たち練習生は行き場を失った。龍馬たちを受けいれてくれるよう勝が依頼したのは小松だった。小松は龍馬たちを薩摩藩の大坂蔵屋敷にかくまい、雇用することにしたのである。
 当時、薩摩藩は薩英戦争の教訓から海軍力を強化するため、新たに蒸気船を購入しようとしていたが、航海に必要な技術や人員が不足していた。蒸気船掛(かかり)の家老だった小松は龍馬たちが習得している航海術を活用しようと考えていた。
 小松が龍馬たちを雇用することを大久保利通に知らせた書簡には、龍馬たちを「航海之手先」にしたいと書かれている。「手先」というのは語感が悪いが、ガイドとか教官という意味が強いのではないか。
さつま人国誌 一方、龍馬たちも蒸気船による貿易活動を計画しており、小松の援助によって、それを実現しようとしていた。のちの亀山社中や海援隊の構想である。こうして、龍馬たちと薩摩藩はいわば、ギブ・アンド・テークの関係で結ばれたのである。
 慶応元(1865)年5月、龍馬の1回目の入薩は、そうした小松の構想が背景にあって実現したのである。そして、このとき入薩したのは龍馬だけでなく、数人の仲間たちがいたと思われる。龍馬たちは西郷宅だけでなく、小松家別邸(現・鹿児島市原良町)にも滞在したのではないだろうか。小松はこのころ、新たに海軍掛を拝命し、薩摩海軍の総帥になっていた。
 2回目の入薩のきっかけとなったのは慶応2(1866)年正月の寺田屋事件である。龍馬に危急を知らせたお龍(りょう)の回想が面白い(「千里駒後日譚」)。
 幕吏との乱闘のとき、龍馬が使ったピストルは小松からもらった6連発だったという。寺田屋を脱出した龍馬とお龍は二本松の薩摩藩邸(現・同志社大学今出川校舎)に庇護(ひご)された。小松も急報を聞いて、途中まで馬で迎えに行っている。
「小松さんは遙(は)るばる馬に騎(の)って迎へに来て、お龍さん足が傷(いた)むだらうと私の鞋(わらじ)を解いて石でたたひて呉(く)れました」
 小松の優しさがうかがえる一面である。
 また入薩した龍馬がお龍とともに霧島の塩浸(しおひたし)温泉で湯治したことは前回述べた。じつはそのとき、小松も霧島に湯治に出かけ、塩浸温泉の近くの栄之尾温泉に滞在した。「小松帯刀日記」慶応2年3月28日条には「吉井幸輔・坂元(坂本)龍馬、塩浸より見舞として入来(にゅうらい)の事」と書かれており、龍馬が小松を訪ねてきたことがわかる。
 龍馬も小松を高く評価していた。土佐高知の兄・坂本権平にあてた書簡のなかで、「当時天下の人物」といえる者として、薩摩藩から西郷とともに小松の名前をあげ、「是は家老にて海軍惣(そう)(総)大将なり」と書いている。
 京都の小松邸で薩長同盟を協議したとき、龍馬の周旋が功を奏したことは有名だが、このような小松との信頼関係で結ばれていたからこそであろう。

(歴史作家・桐野作人) 

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