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'07/06/30 本紙掲載 
     
 

知られざる猛将・島津家久(下)

■ 毒殺? 急病? 死因は謎

家久の居城だった佐土原城天守跡(豊久時代のもの)=宮崎市

 天正15(1587)年3月、豊臣秀長(秀吉の弟)率いる10万の大軍が北九州に上陸し、豊後、日向へと怒濤(どとう)の勢いで南下してきた。島津方は抗するすべもなく後退を重ね、同年5月、ついに太守義久の降伏に至る。
 4月下旬、島津家久も嫡男豊久とともに居城の佐土原に帰ったが、豊臣軍に包囲された。これ以上の抗戦は不可能と悟った家久は秀長の老臣・藤堂高虎の説得により降伏する。その際、娘を人質に差し出した。
 家中随一の主戦派だった家久の帰順は秀吉に好印象を与えた。秀吉が義弘にあてた島津家中の処遇に関する朱印状(5月26日付)には家久の一条があり、意外なことが書かれている(「島津家文書之一」)。
 「島津中務少輔(なかつかさのしょう)(家久)の儀は、人質を出し居城を開け、中納言(秀長)について上方へ上り、相応の扶持(ふち)(知行)を受けて奉公する由、(秀吉が)神妙に思(おぼ)し召されたので、日向のうち、佐土原城と周辺の知行を与えることとする」
 どうやら、家久は秀長に従って上京し、上方に別の所領をもらって豊臣政権に奉公したいというのである。そのため、秀吉は家久の態度を神妙だとして、旧領の佐土原を安堵(あんど)すると告げている。
 これと前後して、家久が日向野尻の秀長本陣に足を運び、正式に和睦(わぼく)が成立した。ところが、そこで異変があったとするのが島津側の史料である(「旧記雑録拾遺 諸氏系譜三」)。
さつま人国誌 家久が出された盛り膳(ぜん)を食したところ、「計らずも鴆(ちん)毒の和菜、羮(あつもの)ありて、我が前に備ふ、これを食し重病たり、療養を加えるもまた能(あた)わず」。
 家久が秀長に毒を盛られたと書いてある。毒の種類は鴆毒で、中国南方にすむ鴆という鳥の羽にある猛毒。毒物の総称ともいう。こののち、家久は佐土原に帰って重体となり、6月5日に他界した。享年41歳。
 果たして、家久は本当に毒殺されたのか。しかし、豊臣方が手を下したとする説には疑問がある。家久は豊臣政権にいち早く帰順し、秀吉から「神妙」だと賞せられている。毒殺する動機はないのではないか。家久が豊臣政権にとって邪魔者ならば、家久死後、嫡男豊久に佐土原を安堵しないだろう。
 では、逆に島津方に動機があるのか。家久の離脱をきっかけに、第2、第3の離反者が出るかもしれないから、家中の結束を維持するために、家久の離反を未然に阻止しようと、ひそかに非常手段をとったのか。
 しかし、島津方は秀吉の意向を尊重して、家久の上京に必ずしも反対していない。太守義久が家久にあてた書状がある(「旧記雑録後編二」三三八号)。判読が難しいが、次のように解せるのではないか。
 「あなたは在京の支度をしているのでしょうか。世上で風聞しています。上洛の事情に何か変わったことがあったのでしょうか。心もとなく思います。ぜひとも公界(くがい)(公儀=豊臣政権)に背かれぬよう、よくよく分別が肝要です」
 た義久は追伸でも「上洛は然るべきよう、ご納得されることが肝心です」と念押ししているが、家久が上京をとりやめるのではないかと気をもんでいる様子である。
 家久に何か心境の変化があったのか。そのことが家久の死と何らかの関連があるのか。それとも、急な病気で上京が不可能になっただけなのか。家久の死因は今なお謎に包まれたままである。

(歴史作家・桐野作人) 

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