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'07/06/23 本紙掲載 
     
 

知られざる猛将・島津家久(中)

■ 軍法戦術の妙で敵討つ

島津家久が豊臣軍を破った戸次川古戦場=大分市中津留

 島津氏中興の祖とされる日新斎忠良が自分の子や孫を評した言葉がある。そのなかで、孫の家久について「軍法戦術の妙を得たり」と述べている(「島津義弘公記」)。
 日新斎が没したとき、家久は22歳だったから、その天分を果たしてどの程度知りえたかはいささか疑問だが、家久に対する島津家中のおおかたの評判がこの言葉に反映しているのはたしかだろう。
 日新斎が評したとおり、家久は戦場でたぐいまれな異能を発揮する猛将だった。連載の第8回でも、家久が沖田畷(なわて)(現・長崎県島原市)の戦いで龍造寺隆信の大軍をわずかな軍勢で撃破したことを紹介した。そのとき、家久は兵たちに向かって「必然死すべきことを覚悟し、臆病によって薩摩の名が消えることがないやうに、少しも怖れず勇敢に攻撃すべし」と叱咤(しった)したという(「イエズス会日本年報」)。
 家久は気性の激しい人だった。しかも、それは10歳以上も年長である3人の兄への対抗心とないまぜになっていたように思われる。。
 天正2(1574)年、島津家の分家である薩州家の島津義虎(よしとら)(出水城主)に反逆のうわさが立ったことがあった。すると、家久が怒って「急ぎ義虎は串木野(家久の居城)へ来て申し開きをせよ。さもなくば、その身上は終わると思え」と息巻いたほどである(「上井覚兼日記」上)。結局、ただの流言にすぎなかったが、家久は太守義久を差し置いて義虎をけん責しようとしたわけで、越権行為といえないこともない。
さつま人国誌  また、天正元(1573)年7月、垂水の伊地知重興(しげおき)の支城・牛根城を囲んでいたとき、伊地知方に加勢する肝付勢3000余が忍び寄って後方から襲ってきた。家久は搦手口(からめてぐち)(裏門)を守っていたが、甲冑(かっちゅう)を肩に掛け、3尺(約90センチ)の太刀をもち、2、3人の従者とともに打って出た。
 敵の1人と組み合ったが、家久の豪勇に恐れをなして逃げ去った。もう1人、田辺田清左衛門という者が向かってきたが、家久は自慢の剛刀で田辺田のかぶとの鉢をたたき割ったので、これまた逃げてしまった。結局、搦手口に押し寄せた肝付勢300余は家久の勢いに圧倒されてがけの下に追い落とされた。
 家久もこの戦いで8カ所を負傷したが、平気だったという。家久の身体的特徴は不明だが、3尺もの業物を難なく扱えるというのは、よほどの体力が必要である。家久は大柄で大力だったのではないか。
 その一方で、家久は冷静に戦況を判断し、果断な決断を下す智将の面も持ち合わせていた。それは、天正14(1586)年12月、豊後の戸次(べっき)川(現・大野川中流)で豊臣軍の先手である仙石秀久、長宗我部元親(もとちか)、十河(そごう)存保(まさやす)らを打ち破った戦いである。
 このとき、家久は味方を川の上流と下流に伏せておき、一部のおとりを出して、対岸の敵を巧妙におびき出し、半分ほどが渡りきったところで、三方から取り巻いて勝ちをおさめた。この戦いで元親の嫡男・信親(のぶちか)や存保といった大名クラスが討死した。
 島原沖田畷と戸次川の両合戦とも、家久は敵の大将を討ち取っている。これは戦国の合戦史上でも、桶狭間合戦や厳島合戦に比すべき、まれな出来事である。家久の「軍法戦術の妙」たるゆえんである。
 だが、ほどなく、家久の命運は暗転することになる…。

(歴史作家・桐野作人) 

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