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'07/06/16 本紙掲載 
     
 

知られざる猛将・島津家久(上)

■ 信長、光秀と京で出会う

坂本城跡に立つ明智光秀像=滋賀県大津市

 戦国島津氏には2人の家久がいた。1人は島津義弘の三男で、薩摩藩祖となった中納言家久(前名・忠恒)である。
 もう1人が島津4兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の末弟、中務大輔(なかつかさのだいぶ)家久(日向佐土原城主、1547−87年)である。この家久は中納言家久の叔父にあたる。ここではこの家久を取り上げたい。
 家久がまだ薩摩串木野城主だった天正3(1575)年2月、上京の途についた。目的は島津家が薩摩、大隅2カ国をほぼ平定したことを感謝し、日向を含めた三州平定が実現できるよう、太守義久の名代として伊勢神宮や愛宕権現に祈願するためだった。ときに家久29歳。
 上京の途次、家久は英彦山(ひこさん)、厳島、生田森などをめぐり、入京する前に愛宕山に参詣している。その後、神社仏閣や名所旧跡を精力的にまわっている。
 嵐山の法輪寺にある小督(こごう)塚、嵯峨野の二尊院にある西行庵址、藤原定家の旧居跡や式子(しょくし)内親王の墓、瀬田の石山寺では紫式部が源氏物語の着想を得たという参籠(さんろう)の間や石山寺縁起絵巻を拝観し、京都から志賀越えで近江坂本に向かうときは古今集の一節を日記に記している。猛将として知られた家久の意外な文化的素養がうかがえる。
さつま人国誌  家久の京都滞在中の出来事で特筆すべきは、織田信長を目撃したことである。4月21日、信長は大坂の本願寺攻めから帰陣し、宿所の相国寺に向かうため、洛中(らくちゅう)を何万騎いるかわからないほどの大軍で行軍した。
 家久の旅行日記「家久君上京日記」から信長の様子を紹介しよう。まず幟(のぼり)が9本立てられ、黄色地に永楽銭の家紋が染められていた。前をさまざまな色の母衣(ほろ)を付けた母衣衆が20騎先行し、信長のまわりには屈強な馬廻(うままわり)100騎ばかりが警護し、帰陣にもかかわらず甲冑(かっちゅう)を着けた完全武装だった。馬廻たちの軍馬も馬面や馬鎧(うまよろい)を着けていた。とにかく織田軍は派手である。
 信長自身については「上総(かずさ)殿支度皮衣(かわごろも)也、眠り候てとをられ(通られ)候」とあり、甲冑ではなく皮衣を着し、馬上で居眠りしていたという。激戦の疲れが出たせいだろうか。
 5月14日、家久は連歌師・里村紹巴(じょうは)と連れ立って、坂本城に明智光秀を訪ねた。光秀は遠来の賓客である家久のために、わざわざ御座船を用意し、坂本城から五月晴れの琵琶湖に漕ぎ出して遊覧した。御座船は3畳ほどの家形の櫓(やぐら)を立てたもので、光秀自ら船内を案内した。家久は櫓の板ぶきの上に登って景色を見ながら杯を重ねたという。
 翌日、光秀がまた城に来るよう声をかけてくれた。家久が遠慮して固辞すると、光秀のほうからやってきて、とある茶室で茶湯を振る舞ってくれた。
 しかし、家久は「茶湯の事不案内」のため、ただ白湯(さゆ)を所望したという。また連歌も催され、家久も第三句を詠むよう勧められたが、当世一の連歌師といわれる紹巴や光秀の句作には及ばないと思ったのか、詠むのを遠慮して辞去している。茶湯や連歌に精通した文化人でもあった光秀には、家久は田舎者に映ったかもしれない。
 家久の旅は3カ月半の長きにわたったが、信長や光秀と会ったのは島津家一門では家久ただ1人である。僻遠(へきえん)の地薩摩と織田政権の要人との邂逅(かいこう)は数奇なめぐり会いではないだろうか。

(歴史作家・桐野作人) 

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