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'07/05/26 本紙掲載 
     
 

「神変奇特」の軍配者・川田義朗(下)

■ 軍気で敵将の滅亡予言

沖田畷古戦場に残る龍造寺隆信の供養塚=長崎県島原市

 川田義朗(よしあき)が軍配者としての不思議な託宣や予言をした逸話はまだある。
 天正12(1584)年3月、島原半島にある沖田畷(なわて)(現・長崎県島原市)で、地元の大名・有馬晴信を支援する島津家久(義久、義弘の末弟)が肥前佐賀の大名・龍造寺隆信と激突した。沖田畷の戦いと呼ばれる。
 隆信は当時、肥前を中心に筑前、筑後、肥後などに勢力を広げ、「五州二島の太守」と称し、近隣では「肥前の熊」と恐れられたほどの勇猛な大名だった。
 龍造寺方は離反した晴信を討とうと、大軍を催して島原半島を南下してきた。その数、6万人から2万5000人まで諸説あるが、とにかく大軍だった。
 それに対して、島津方はわずか3000人、晴信の手勢を合わせても5000人ほどだった。戦う前から勝敗は決しているといわれてもおかしくなかった。
 島津一門でも屈指の勇将である家久は敵の大軍を前にして決死の覚悟をかためた。副将の新納(にいろ)忠元と相談して、将兵たちにそれぞれ持ち場を割り当てて死守せよと命じた。もし持ち場から後ろに下がった組はみな死罪だと厳命したほどである。
 この遠征に義朗も従軍していた。太守義久の陣代である家久のそば近くにいて軍配を受け持ったのだろう。義朗は両軍激突の直前に、敵の上空に立ち上る「気」を観察して家久以下に告げた。
さつま人国誌 「いくさをする者は軍勢の多少によりませぬ。古典にも曰(いわ)く。周の武王は二万余で殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の億万に勝ち、魏は五万で秦の五十万を破り、漢は三万で楚の八万を伐(う)っております。わが国でも楠正成は一千余で関東の八十万騎を防ぎました。今日、敵の軍気を見るに必ず慈の吉例であり、敵の大将が滅ぶ瑞相(ずいそう)があらわれております」(「勝部兵右衛門聞書」)
何と、義朗は敵の大将が滅ぶ軍気が出ていると託宣したのである。軍配者は敵の「気」を見て、勢いがあるとか、衰えているとかいう大ざっぱな判断を下すのがふつうで、もう少し踏み込んでも、せいぜい敵の敗北を予想するくらいである。
 それなのに、義朗は大胆にも敵の大将の滅亡まで予言してしまった。軍配者がいったん口にした以上、結果が伴わなければ、責任を厳しく問われる。
 義朗はむしろ、敵の軍気より味方の軍気をよく観察したのではないか。味方は敵の大軍を見て委縮し、総大将からは退却は死罪だと命じられていたから、味方に前途の希望を与える必要があると見抜いた。そして軍配者の命運をかけて大胆な託宣をしたのではないか。
 すると、奇跡が起こったのである。島津方は義朗の託宣に勇気づけられ、龍造寺勢を撃破したばかりか、川上忠堅(ただかた)が隆信を討ち取ってしまったのである。
 義朗の託宣は見事に的中した。そのためか、このときの義朗の軍配を褒めたたえる島津方の史料が多い。「長谷場越前自記」にも「吐気(とき)大将には河田駿河守(義朗)と云いし人世上にかくれぬ役者也」とし、義朗の「必ず大将討ち取るべし」という託宣に、下級兵士たちがわれもわれも奮い立って手柄を立てたと述べている。
 島津氏の宿敵だった大友氏の史料「大友興廃記」も「名誉の軍法者なり、神変奇特の事どもおほ(多)かりき」と、義朗の軍配の妙を絶賛したほどである。義朗には何らかの予知能力が備わっていたのではないか。

(歴史作家・桐野作人) 

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