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'07/04/07 本紙掲載 
     
 

西郷隆盛の島妻・愛加那 その後

■ 一人残され寂しい余生

龍郷町の西郷隆盛謫居跡に飾られている愛加那の肖像画

 西郷隆盛が奄美に流罪となり、龍郷村で流謫(るたく)生活を送っていたとき、愛加那を島妻(あんご)に迎えたことはよく知られている。愛加那は郷士格である龍(りゅう)家の二男・佐恵志の娘だった。2人の間には菊次郎(のち京都市長)と菊草(のち菊子、大山誠之助夫人)という2人の子どももできた。
 しかし、島妻の運命は悲しい。西郷が罪を許されて本土に戻っても同行することはできない。愛加那が最後に西郷に会ったのは元治元(1864)年2月のことだった。結婚してから4年ほどたっていた。
 明治になってから、愛加那の手もとから菊次郎と菊草は西郷家に次々と引き取られた。そのため、愛加那は親せきの子、丑熊を養子にしたという。
さつま人国誌  その後の愛加那については、菊次郎が2度ほど帰郷して会っていることが判明しているが、明治35(1902)年の旧暦8月27日、農作業中、脳溢血(いっけつ)のため畑で倒れたまま他界したという最期のほかは、ほとんど知られていない。おそらく寂しい余生をすごしたといわれている。
 そんな愛加那を目撃して、日記や自叙伝に書き残した人物がいる。尾崎三良(さぶろう)である。幕末には戸田雅楽(うた)と名乗り、公家の三条実美(さねとみ)の家士で坂本龍馬と親しく、西郷とも面識があって交流している。その尾崎が明治15(1882)年8月、参事院議官補のとき、沖縄県の巡視を命じられた。その仕事を終えた帰途、龍郷村に立ち寄って愛加那と会っている。
 この人は日記だけでなく、自叙伝も残している。まずあとから書かれた自叙伝が公表された。そのなかに愛加那の意外な姿が書かれており、人々を驚かせた。
 「玉鶴と云ふ優美の名にして且つ英雄西郷の愛せし婦人なれば定めて美形ならんと憶想せしが、案に相違し只見る一蛮婦五十位の醜面、しかも全く島風の衣服、手甲には入墨し足は徒(かち)跣(はだし)して来る。是には吃驚(びっくり)せざるを得ず」(「尾崎三良自叙略伝」中巻)。
 身もふたもない書き方である。愛加那が玉鶴と呼ばれているのはおかしいと思われつつも、一時はこのイメージが一人歩きしていた。
 ところが近年、尾崎の日記が刊行されたが、自叙伝と内容が違っている。日記には「西郷隆盛氏ノ未亡人ニ面会」とあるのみで、愛加那の容ぼうや様子などは何も書かれていない。それとは別に、尾崎は汾陽(かわみなみ)某宅を訪れて「玉鶴」という老婦に会ったとも書いている。彼女は上野景範という旧薩摩藩士(のちイギリス特命全権公使)が奄美に役人として赴任してきたときの島妻だったのだ(「尾崎三良日記」上巻)。
つまり、尾崎は記憶違いをしていて、愛加那と別人の玉鶴を混同して自叙伝に書いてしまったらしい。だとすれば人騒がせな目撃談だというしかない。尾崎はせっかく愛加那に会いながらも、結局、日記にその様子を何も書き残さなかったことになる。何とも残念ではないか。

(歴史作家・桐野作人) 

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